07 勅旨牧小野牧
律令制のはじめ、馬牧は建前として全国一律に官牧が設置されました。その主な目的は軍団に対する騎馬の貢納による供給にあります。しかし、馬牧に適する地域と不適な地との差は抗しがたく、特定の地域以外は次第に衰微し、廃止されてしまいます。
また、軍団用の騎馬の供給を主な目的とした馬牧は、律令制軍団そのものが解体したことも衰微の大きな原因でした。後世まで馬牧が維持された特定地域というのは、朝鮮半島に対する九州であり、蝦夷に対する阪東・甲信地域という辺境地帯であったことに、それがよく現われています。
延長五年(927)に完成した『延喜式』の段階で、一般の官牧と御牧と呼ばれて天皇家直属の勅旨牧に分かれ、武蔵国では由比・石川・小川・立野牧が勅旨牧に指定されました。その後、承平元年(820)に陽成院の小野牧が、承平三年(933)朱雀院の秩父牧も勅旨牧に切替られています。
勅旨牧小野牧の長官である別当に散位小野諸興が補任されました。それ以前の官牧時代の長官は牧司・牧長と呼ばれた官僚でしたが、別当は職として請負制になりりました。それは国司の徴税が成果主義の請負となり、軍団も精兵主義の健児制と俘囚による傭兵制に代わったことに対応していました。
小野牧は屈指の大きな牧だったようです。同じ勅旨牧の由比・石川・小川牧はそれぞれ十疋づつ、秩父牧は秩父郡の石田牧と児玉群の阿倍久原で二十疋、立野牧も二十疋の貢馬を義務づけられていたのですが、小野牧は陽成院時代は三十疋だったものが勅旨牧になると四十疋に引き上げられています。
牧馬の飼い方は律令時代から厩牧令によって決められたものがあります。牧長の他に記録係の牧帳が一人いて、その下に一群百疋を単位として二人の牧子が配置されました。飼い方はいわゆる放牧ですから、たった二人の馬飼で百疋の馬の面倒をみていました。牧では五歳以上の牝馬百疋につき六十疋を生産基準とされ、それ以上生まれると褒賞が与えられ、また百疋につき十疋以上の割合で死耗すると弁償させられもしたのです。
こうした牧馬で一体何匹ぐらいの馬が飼われていたか、その総数は明確には分からないのですが、『延喜式』の制定される以前、百十疋貢馬した信濃国諸牧馬で飼われた総数は二千二百七十余疋という記録があります。貢馬の数の約二十倍の駒数ですが、これを単純に勅旨牧になった小野牧に摘要すると、八百疋の馬が飼われていたことになります。別当の請負による馬牧には官馬ばかりでなく、私馬も混在していたので総計千疋を越える馬が飼われていた可能性もあります。
こんな大きな小野牧が多摩郡の何処にあったのか、これまた確かな所在地は比定されていないのです。『延喜式』の牧の立地条件によると、海に囲まれた島、川の中州や張り出した湾曲部、半島状の地形に位置し、土塁や柵の維持が簡単な場所とされます。小野牧の場合、小野神社に近い多摩の横山地帯の谷戸なども考えられるのですが、もしかして大きく蛇行して流れていた多摩川の中洲か、広い河原だったのかもしれません。
別当小野諸興が小野牧に赴任してから数年後、阪東に大事件が起きました。承平・天慶の乱、平将門の叛乱です。そのとき、別当小野諸興は急遽、五位にあて武蔵権介兼横領使に任命されたのです。同時に上野権介に任じられた散位藤原惟条も、六年前に朱雀院御領だった秩父牧を勅旨牧に切り替えられたとき別当になった者でした。
九世紀の対蝦夷戦以来、当時の主戦力であった騎馬戦に馬の供給は欠かせず、叛乱を起こした将門も下野国の地元で長洲馬牧と大結馬牧の二つの官牧を地盤としていたのです。それに対し、朝廷は勅旨牧の別当を臨時の員外国司に任命してまで、馬牧の戦力に期待し、動員をかけたのです。ここに馬牧を根拠として<武士>が誕生する切っ掛けがありました。