源平交代

兵藤裕己著『平家物語の読み方』(ちくま学芸文庫)を本屋で手にしたとき、大河ドラマ平清盛」の放送直前だったから、例によって便乗本のひとつと思わなかったわけではなかった。ただ、以前に同じ著者の『太平記<よみ>の可能性』(講談社選書メチエ)を読んでいたことから、ある種の期待があった。

前著では『太平記』は『平家物語』に敷かれた歴史観に規制されて成立したという。それが<源平交代>という思想であり歴史観であった。いうまでもなく『平家物語』は平氏の没落と源氏政権成立の物語である。

吉田兼好の『徒然草』によると、比叡山延暦寺の最高位の僧である天台座主慈円に扶持した信濃前司行長によって『平家物語』は編纂された。ところが、それは慈円の著した歴史書愚管抄』によって意味づけされた源平交代史観であった。しかし、平氏や源氏の政権交替といっても、それ自体は政権の主体にはなりえない。

平家物語』の冒頭ちかく源平両氏を位置づけていう。

 昔より今に至るまで、源平両氏朝家に召しつかはれて、王化にしたがわず、をのづから朝権をかろむずる者には、互ひにいましめを加へしかば、代のみだれもなかりしに・・・・

とあって、両家はあくまでも朝家、天皇の王権秩序の回復者とされた。

平氏政権を倒した源頼朝の源氏政権は三代にして貞盛流桓武平氏を称する北条氏に奪われ、以降は慈円歴史観が神話的に作用して、現実の歴史を規制する。

鎌倉末期に起こった反北条勢力は急速に新田と足利の源氏嫡流に糾合されて鎌倉幕府は滅ぼされ、足利幕府を崩壊させた織田信長桓武平氏を自称し、そして徳川家康は新田流清和源氏を名乗るという具合に源平交代がくりかえされ、中世から近世・近代の天皇制国家を持続させるのに寄与した。

源平交代の最初、平氏を倒した源氏の頼朝に「朝家に召しつかはれ」ぬ道がなかったわけではない。平氏打倒へ蜂起した初めのころ、大挙して押し寄せた平氏軍を富士川で追い返したとき、敗走する平氏軍を追って追撃し上洛しようとする頼朝に対し、坂東の豪族たちはこぞって反対した。なかでも二万の大軍を擁する上総介広常は、朝家のことばかり気に
せず坂東にあって泰然としていればいい、と主張して上洛を思いとどまらせた。

そのころ京都では、頼朝蜂起の知らせに「あたかも将門の如し」と受取っていた。かつて将門は坂東に叛乱をおこし、坂東独立国家を目論んだ。そして、将門を倒した勝者たちでさえ再び叛乱して平忠常の乱をおこして坂東を焦土と化した。この忠常直系の子孫こそ頼朝の上洛を思いとどまらせた上総介広常である。

しかし、頼朝は広常を暗殺してまで上洛し朝家に召しつかはれ、源平交代の歴史がはじまったのであった。

ところで、こうした歴史認識を武士中心史観とする黒田俊雄の「権門体制論」があるが、兵藤裕己はこれは慈円の構想した歴史の延長上にイメージされた国家像であるとする。

また、関幸彦著『武士の誕生』(NHKブックス・講談社学術文庫)でも同じことを指摘していた