2006-07-01から1ヶ月間の記事一覧

13 相模国進出

源為義は六条判官と呼ばれるように検非違使として京都に在住していたのに、相模国の愛甲荘を熊野山領として寄進しています。愛甲荘に接した毛利荘は為義弟の陸奥六郎義隆が領していました。為義・義隆兄弟は父義家の奥州合戦が終ってから十年後に生まれてい…

12 源氏没落

奥州合戦の後、源義家は官職もないまま十年間放置されました。白河上皇は義家の代わりに弟の義綱を陸奥守に起用したのです。一般に、奥州合戦の戦功によって義家の勢力が拡大することを白河上皇が怖れたからだと言われます。しかし、源義家は平将門や忠常の…

11 奥州合戦

阪東における清和源氏とは、言わばだったのです。源頼信が鎌倉に源氏の拠点を持ったとき、阪東は既に阪東八平氏や藤原秀郷の子孫、それに武蔵七党などの在地領主によって占められていました。そこへ清和源氏が割り込むには相当の無理を強いる必要があったの…