□ 京都の宝暦事件

赤穂事件からおよそ半世紀後のことである。
赤穂藩浅野家の家老藤井又左衛門は大石内蔵助に次ぐ上席家老として藩主の参勤交代に御供して江戸へ出ていた時、刃傷事件が起きた。主君の補佐もできなかったことを恥じてか、赤穂にさえ帰らず出奔してしまい、知己の越中国富山藩前田家の家臣を頼り、同国小杉村に身を寄せ、藤井左門と称し、近隣の豪農の娘を娶り、その間に二男一女をもうけた。


嫡男は16歳の時、富山藩の前田民部をたより京都に出て正親町三条家に仕官し、まもなく神道家の竹内式部に入門。また地下の諸大夫藤井大和守忠義の養子となり、藤井右門と名乗った。


竹内式部は越後の医家に生まれ、17〜8歳のころ京都へ上り、大納言徳大寺実憲に近習として仕える一方、学問は松岡仲良に師事し、山崎闇斎垂加神道儒学を学び、後に仲良の師玉木葦斎の門に入る。


式部と右門は皇学所教授を務めたが、やがて式部は徳大寺家の禄を辞し、借家に塾を開く。徳大寺家へは近習格として出入りは許されていた。塾には公卿らの他に、地下官人や諸国からの門人七、八百人もいたらしい。


式部が教えたのはいわゆる四書五経儒学の他に、『日本書記』神代巻や幕末維新の志士たちの聖書になる浅見絅斉の『靖献遺言』を用いて大義名分論尊王思想であった。そして朝廷衰微の原因は、関白以下の無能にあるとして、少壮・下級公家の奮起こそ朝威回復の道であると説いた。また有志をあつめて軍学兵法や武術の実践訓練をしたともいわれる。こうした式部の講義は公家たちを元気づけた。


事が大きくなったのは、当時十七、八歳の桃園天皇は式部門下の伏原宣条に儒学講義を受けていたが、その内に式部門下の公卿たちが、御番の際に交替で天皇に『日本書記』神代巻の進講を始めるようになったことだった。


こうした式部の公家社会の序列を無視した尊王思想の鼓舞は、徳川将軍家の名分だけでなく、五摂家筆頭近衛家の名分すら否定するものであった。関白近衛内前天皇を強く諌め進講を中止させたが聴きいれられなかったことから、遂に天皇側近から式部一門の公家を免官・遠慮などの処罰によって排除し、竹内式部の処分を武家に求めて京都所司代へ告訴した。


しかし、当時の幕府側に竹内式部をまともに論駁できる人物はおらず、式部を処罰する口実が見付からず苦慮したらしいが、宝暦九年(1759)五月、口実をもうけて式部を五畿内・関東八国・東海道筋・木曽路・甲斐・近江・丹波・越後・肥前の諸国からの追放が申しわたされた。


そのとき藤井右門はひそかに京都をのがれ、変名して故郷の小杉に隠れるが、その後は富山の売薬商人に身をやつして再度諸国を巡り、勤皇の志士をひそかに募ったという。


この年、九代将軍家重の側用人岩槻藩主の大岡忠光藩医として仕えていた山縣大弐は『柳子身論』を著していた。