26 景時謀叛

伊豆の流人頼朝に平氏打倒の挙兵を仕向けた一人に怪僧文覚がいます。当時なら何処にでも転がっていそうな髑髏を拾ってきて、これが頼朝の父義朝のものだと見せて、父の敵討ちをせぬかとそそのかしたのです。それは流人時代の頼朝の夢枕に立った鎌倉の稲荷神と同じような立場というか、文覚が頼朝に鎌倉の稲荷神とそれを祭る鎌倉党へ引き合わせたかのような関係に見えます。
とすれば、文覚と稲荷神の間に何らかの関係が有ったはずです。


文覚は鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えた武士で、北面の武士が詰める武者所に通い、俗名を遠藤盛遠といいました。出身は摂津国の海賊渡辺党の一員ですから、事件を起こさなければ摂津源氏頼政と供に戦死していたでしょう。同じころ頼朝も上西門院に仕えていたので、二人はそのころからの顔見知りだった可能性があります。

文覚は十七歳のとき従姉妹で人妻の袈裟という女に恋い焦がれて無理矢理一夜契ったところ、袈裟にこうなったからには夫を殺してほしいと頼まれ、忍び込んで夫の首を切り取ってきました。ところがその首は夫の身代わりとなった袈裟の首だったのです。あまりの事に袈裟の夫に殺してくれと自首したものの、許されて出家しました。

その後、各地を荒修行して歩き、遂に飛ぶ鳥をも祈り落すという験力を身につけ、刃の験者といわれて恐れられるようになりました。京の高雄山に住み着き、そこにあった空海ゆかりの神護寺の復興を思い立ったのが三十歳のときです。それから五年後、白河法皇の御所へ押しかけて神護寺復興の寄付を要求し、暴言を吐いた罪で伊豆へ流されてしまったのです。そこに流人となって十三年目の頼朝がいました。

文覚が許されて神護寺へ戻ったのは五年後ですが、頼朝が挙兵したのはそれから二年後でした。頼朝と文覚の間に交渉があったのは、この間と思われます。文覚は再び白河法皇をおとづれて寄付を要求しました。法皇から神護寺復興の寺領が寄進されたのは許されてから五年後のことで、木曾義仲が上洛して平氏を京中から追い出して三ヵ月後でした。頼朝が上洛に反対していた上総権介廣常を殺し、範頼・義経の率いる大軍を上洛させたのは、その直後のことです。頼朝を挙兵させることで文覚の要求を受入れることを白河法皇は約束していたのです。

出家してからの文覚は空海ゆかりの寺院を復興するこを念願にしていました。神護寺復興がなると、平氏に焼かれた東大寺の復興に奔走する重源に加勢するの傍ら、今度は東寺の復興に挑んでいます。東寺は平安京羅城門の左右に並ぶ一 つで、嵯峨天皇から空海に与えられた真言宗の最初の密教寺院であり、後に東密の根本道場になりました。 そして、空海は東寺を密教寺院として整備するとき、稲荷山から材木を調達し、さらに伏見稲荷社を東寺の護法神とししたのです。空海ゆかりの神護寺や東寺を復興した文覚が、それを知らぬはずが有りません。文覚が頼朝に鎌倉の稲荷神とそれを祭る鎌倉党へ引き合わせたのかもしれない根拠がここにあります。



しかし、文覚にとって何故空海だったのでしょう。文覚が各地を荒修行した先々の多くはが真言宗の寺院であったということもあるのですが、例えば東寺は正しく教王護国寺といわれるいうように、空海の本心はどうあれ、表向きは比叡山を開いた最澄に負けぬくらい鎮護国家を標榜していたことに同感したのです。平たく言えば国家のための仏教として真言密教を称えたのです。文覚が白河法皇にどれほど暴言を吐こうと、空海ゆかりの寺院を復興することは鎮護国家に役立つという信念に変りなかったのでした。それも抽象的な鎮護国家ではなく、法皇(天皇)あっての仏法という、平氏政権以前の国家像を理想としていました。重源の東大寺復興を手助けしたのも、理想を実現するためだったのです。

流人頼朝を挙兵させようとしたのも同じ発想からでした。そして、頼朝は文覚に、白河法皇の思惑に乗ったのです。頼朝の二度の上洛がまずもって東大寺上棟式であり、大仏開眼供養であったことは、それを如実に表わしていました。無論、頼朝は朝廷の宗教政策に便乗しただけでなく、積極的に京都政権に介入し、さらには大姫を後鳥羽天皇へ入内すべく運動に乗り出しました。

その結果は京都貴族の手練手管に翻弄され、大姫は父に殺された清水冠者義高を想い焦がれて病死してしまいました。頼朝が夢破れて没したのも、それから間もないころでした。百発百中の騎射の腕前だったはずの頼朝ですが、事もあろうか落馬が切っ掛けの急死だったのです。

鎌倉幕府の正史であるはずの『吾妻鏡』には、頼朝の死とその前後が有りません。編纂者である執権北条氏が疑われるの無理のないことです。晩年にいたってますます京都政権へ身を寄せていった頼朝に対して、北条氏ばかりでなく、鎌倉御家人たちは頼朝の阪東に対する裏切りを誰しも快く思っていなかったはずです。最早、誰に暗殺されても不思議ではなかったのです。


それを象徴する事件が頼朝の一周忌直後に起きました。頼朝の分身のごとくだった梶原景時が、有力な御家人たちの連署による弾劾によって鎌倉から追放されてしまったのです。一時は相模国一宮にある所領の城郭に防戦の構えをしたものの、夜陰に紛れて脱出し、駿河国清見関で近隣の武士たちと行き合い、合戦となって孤立無援のまま一族郎党が討たれ、ほとんど族滅となってしまいました。

景時は明らかに上洛しよとしたのです。鎌倉党が所領の鎌倉の地を頼朝と幕府に占拠されてどれほど怨みに思おうと、頼朝と一心同体の景時もまた京都志向が強かったのです。頼朝の蔭の役目を一身に引き受けた景時でしたが、表の晴の舞台では、事有る毎に頼朝の和歌に返歌を返せるほど風雅の才を持ち、都の事情に通じていました。

平氏政権下で大番のために上洛した景時は、弟朝景とともに大納言徳大寺実定の屋敷に出入りしていたのです。実定と和歌を通じて親しかったのが摂津源氏頼政でした。また、実定の父公能の猶子になった藤原光能後白河法皇の第一の側近で、その妹は以仁王の妾になっていました。頼朝を挙兵させるべく白河法皇の意向を文覚に伝えたのが側近の藤原光能です。徳大寺家に出入りしていた景時は和歌ばかりでなく、こうした朝廷の意向をも熟知していたはずです。

鎌倉を追放されて上洛しようとした梶原景時の目的は、京の朝廷軍をもって鎌倉の倒幕を目指す、それは早すぎた<承久の乱>ではなかったかと思えるのです。

そのとき景時すら気付かずに作用したのが本来の意味での御霊社でした。新たな権力が辺鄙な阪東の鎌倉に出来たことで、それまで中心にあった京都は自ずから周辺化しました。御霊として祭られた神々とは、本来、権力の中心から遺棄された者の霊に他なりません。権力の中心移動によって周辺化した結果、京都政権=は周辺の御霊神と一体化したのでした。