29 泉親衡の謀反

多摩川の向かいの丘に源家重代の祈祷寺である長尾山威光寺(現妙楽寺 )は、頼朝の異母弟で義経の実兄今若、阿野全成が領していたことは先に触れました。全成の妻は北条政子の妹阿波局でしたが、比企の乱に先立って二代将軍頼家の命令で誅殺されました。頼家の対抗馬であった弟の千万、後の実朝の乳母夫だったからです。

この威光寺を全成が領する以前、横山党の小山有高(菅生有隆)が横領していて、幕府から押妨停止を命じられたことがありました。

全成が誅殺され、その隣に桝形城を構えていた稲毛三郎重成も北条氏によって滅ぼされてから三年後の承元二年(1208)六月、今度は多摩川の対岸から武蔵七党武士団の日奉(西)党の狛江入道増西が一党五十 余人を率いて威光寺領に乱入し、苅田狼藉を働きました。この年の五月から六月半ばまで「一滴の雨も降らず、庶民耕作の術を失ふ」という状態での狼藉でした。翌月、威光寺の院主が幕府へ訴え、狛江入道に鎌倉永福寺の宿直百ヶ日を勤仕させたと『吾妻鏡』にあります。

狛江入道は日奉(西)党の成員には違いないのですが、ここから少し多摩川上流の日野市を中心に栄えた日奉(西)党としては、狛江氏だけが府中辺りを中心に領する横山党の領域内か、それを飛び越えて位置します。もしかして狛江氏は横山党と関わりがあるのではないかと思って系図を見直してみました。

西党系図によると由井別当宗弘の次男由井二郎の孫の狛江大夫を『吾妻鏡』にいう狛江入道増西としています。そして系図では狛江大夫の父は三郎といい、子は由井五郎としていますから、狛江大夫自身は四郎を呼ばれた可能性が大きいことになります。

そこで横山党の小野氏系図を見ると、横山党六代目党主横山時廣の娘の一人を狛江四郎妻としていますから、明らかに横山党と日奉(西)党の間に親戚関係があったのです。西党の由井別当とは八王子にあった由井牧の長官ですから、次男の四郎は横山時廣の娘に入り婿して狛江へ移り住み、狛江大夫・狛江入道増西を名乗ったと見なせます。つまり、狛江入道一党による威光寺領襲撃の背後に横山党があったことになります。

源家重代の祈祷寺である威光寺領に対する小山有高(菅生有隆)の横領といい、狛江入道の襲撃は、横山党が源家に遺恨があったのではないかと思わせる出来事です。


さて、そんな事件から五年後の建暦三年(1213)i二月、泉親衡なる者の謀反計画が発覚しました。信濃の国の住人、青栗七郎の弟阿静房安念という法師が合力を求めて廻文を持ち廻っていたのを、怪しんだ千葉介成胤の被官粟飯原次郎が搦め取って北条義時に知らせたのです。

安念法師の白状によると、将軍実朝と北条義時を討ち、前将軍頼家の次男千寿(後の栄実)を立てるという謀叛計画があり、去々年以後多くの御家人たちに合力を求めていたといいます。その張本人は青栗七郎が仕える信濃国御家人泉親衡と判りました。たちまち各所で謀議の参同者十余人生虜られ、その他に張本百三十余人、伴類二百人におよび、前将軍頼家の遺児千寿を担いで北条義時を退けるという大規模な陰謀であることが判明したのです。その中には侍所別当和田義盛の子の四郎左衛門尉義直や六郎兵衛尉義重、それに甥の和田平太胤長もいました。

謀叛の張本人の泉小次郎親衡とは、いわば信濃源氏で、先祖をたどれば清和源氏の一員です。多田源氏満仲の次男頼信の子孫が鎌倉将軍になった系統であったのに対し、満仲の五男満快の子孫にあたるのが信濃の泉氏でした。満快から四代目の爲公の母が源頼信女で、源頼義・義家親子に仕え、後三年の役に義家に従って戦功を挙げて信濃国伊那郡を拝領し、次男爲扶は伊那太郎を称してその子孫が信濃国に住み着いたといわれます。長野県飯山市に、泉親衡が下伊那郡阿智村から移して一族の菩提をとむらったと伝える大輪院東行寺がありますから、この一族の先祖が信濃国に住み着いたのは中仙道の阿智村と思われます。爲扶から八代目が泉親衡で、泉氏を名乗ったのは小県郡小泉荘(上田市)に拠ったことによります。

この泉親衡を捕縛に向かった一行は、反撃されて数人が殺されて取り逃がし、遂に親衡は行方知れずになってしまいました。因みに信州の小泉小太郎伝説は泉親衡がモデルともいわれています。


その頃、和田左衛門尉義盛は所領の上総国伊北庄に出向していて、報せを受けて馳け参じます。上総国の所領はかつて上総権介広常の所領であったものを、頼朝の命令で梶原景時によって広常が誅殺されたとき、義盛と千葉常秀が折半する形で継承したものでした。

四年前、義盛はこの所領を根拠に将軍実朝に上総国司への任官を願い出たとがあります。実朝は任官させるつもりだったのですが、侍身分の者は受領にしないのが頼朝以来の先例、として政子の拒否によって沙汰止みなりました。これが実現していたなら、義盛は幕府内において北条氏と並ぶ地位を得た上に、上総国の在地支配を有利にできたはずでした。そして千葉常秀は義盛の支配下に立たされざるを得なかったはずなのです。泉親衡の謀叛を北条義時に告知したのは常秀の兄の千葉介成胤でした。

和田義盛は将軍実朝の御所に参上すると、これまでの労功に免じて子息義直・義重等は罪名を除かれたものの、甥の胤長は謀叛の張本の一人として許されなかったのです。翌日、義盛は水干に葛袴を着けた正装で御所の参上、一族九十八人を引率し南庭に列座して是が非でも胤長を赦免してほしいと強引に申し入れものです。しかし、胤長は許されことなく、あまつさえ一族の面前で両手を後ろ手に縛られ山城判官の二階堂行村に引き渡され、やがて陸奥国岩瀬郡へ配流に決まってしまったのです。

面目丸つぶれの義盛をさらに怒らせたのは、没収された胤長の屋敷地は一旦は通常通り縁者の義盛に引き渡されたものの、数日後には北条義時に与えることに変更され、義盛の代官は追い出されてしまったことでした。

そして翌日には和田義盛の館の辺に甲冑を着けた五十余輩の武者が徘徊するようになりました。これは横山右馬允時兼が彼の金吾の許に来たことによる、と『吾妻鏡』は記していますから、横山党が義盛を護衛していたのです。義盛の妻は横山時兼の伯母で、嫡男の宗盛の妻は時兼の妹という関係にありました。三浦半島芦名の浄楽寺に安置される阿弥陀三尊はじめ諸仏像の中の毘沙門天の胎内から発見された銘札に、大和興福寺仏師運慶の作で、願主の名は平義盛と芳縁小野氏とありました。平は和田義盛の本姓、小野氏は横山氏の本姓ですから、夫婦で造仏の願主になっていたのです。この事件が起きる二十四年前、奥州攻めの直前のことです。

横山時兼が訪れた金吾とは前将軍頼家のことで、その墓所は幽閉されて暗殺された伊豆国修善寺ですから、時兼はそこまで墓参に行ったのか『吾妻鏡』の記事から判断できません。時兼はかつて頼家が誕生したとき、宇都宮朝綱、畠山重忠、土屋義清、和田義盛梶原景時、同景季らと供に御護刀を献上しています。泉親衡が謀叛の大将に担いだのは頼家の次男千寿でした。

横山党小野氏系図を詳細に見ると、時兼の祖父時重の弟の小山經隆の娘は泉八郎妻となっています。泉八郎とは泉親衡の縁者ではなかったか、と根拠も無く思われます。もし、そうであったなら、横山党も泉親衡の謀叛に一枚咬んでいたことになります。


かつて多摩川の向かいの丘の源家重代の祈祷寺である威光寺領を横領したのは、泉八郎妻の兄の小山有高(菅生有隆)でした。そして、横山時兼の妹婿になったと思われる狛江入道こと狛江四郎の一党が威光寺領を襲撃したのは五年前のことでした。和田義盛の北条氏に対する対抗意識とは別に、横山党は源氏に対する抜き難い怨恨のようなものがあったのかもしれません。