30 和田の乱

建保元年(1213)和田の乱は鎌倉合戦ともいわれるように、鎌倉市中を戦場として将軍実朝を擁する幕府方の北条氏に対して、鎌倉御家人を統括する侍所別当和田義盛が三浦党をはじめ反北条勢力を糾合して挑んだ大規模な戦いです。

三浦党と源氏の因縁は古いものがありました。平将門の乱に続く平忠常の乱のとき、父の源頼信と供に戦った頼義が相模守に補され、北条氏の先祖にあたる平直方の娘婿として鎌倉の館を譲られたとき、三浦氏も参向したと伝えられます。頼義・義家親子の陸奥攻めに三浦為継が従軍し、眼を射られた鎌倉権五郎景正の顔を土足で踏みつけて矢を抜こうとして怒られています。

その鎌倉権五郎が開発して伊勢神宮へ寄進した大庭御厨を、三浦為継の子の義継ら在庁官人が源義朝の命令で千余騎の軍勢をもって押しかけ荒らしています。そして、義継の孫娘が生んだ義朝の子、義平が率いる三浦氏などの軍勢が武蔵秩父氏の大蔵屋方を急襲して叔父の義賢を討ったのは保元の乱の前夜の事でした。

伊豆で頼朝が挙兵したときも三浦党は源氏方につき、平氏方の畠山氏はじめ武蔵七党などの大軍に本拠である三浦の衣笠城を攻められたとき、充分に防戦した後、既に老将だった三浦義明は子の義澄や孫の和田義盛らの一族を久里浜から房総へ逃し、一人留まって果てたことでした。鎌倉入り頼朝は最初に義澄を三浦介に任命し、義盛を侍所別当にあてて三浦党の戦功にこたえたものです。

とはいえ、も三浦党といえども源氏一辺倒だったわけではありません。都から平氏軍が押し寄せた富士川の戦いの後、敗走した平氏軍を追って上洛するよう命じた頼朝に対し、上総広常や千葉常胤は東国を固めることを主張しました。広常や常胤は平氏方である常陸の佐竹氏の威嚇にさらされていたので無理も無い主張でしたが、そのとき同じことを主張したのは、直接の危機にさらされていたわけでもない三浦義澄だったのです。

後に上総広常は頼朝の命令によって梶原景時に暗殺されています。頼朝が後白河上皇の宣旨によって流人や謀反人から朝臣に返り咲いたときであり、阪東武士団が頼朝を担いで樹立したはずの独立国が終焉したときでした。この三浦義澄の甥が和田義盛です。義盛の一見充てのない謀叛の理由を追っていくと、頼朝が没した翌年に七十四歳で没した義澄の富士川の軍議の主張に行きあたります。


頼朝は独裁権力を行使し、後を継いだ頼家もそれを真似ようとしましたが、御家人たちによってたちまち牽制され、宿老たち十三人による合議制が敷かれました。何とか将軍独裁を廃そうとしたところに、鎌倉幕府は阪東武士団のものという挙兵以来の悲願がにじみ出ています。

しかし、和田の乱ころには既に宿老たちは誅殺されたり没したりして、文官の大江広元などの他は北条義時和田義盛足立遠元の三人しかおらず、足立氏はともかく幕閣は北条氏と三浦党和田氏の対立の図式があらわになっていました。将軍頼家に続いて実朝を出した北条氏は、将軍を補佐し政務を総轄する執権職という有利な立場から独裁的な方向へ進み出していたのです。

和田の乱は一般に和田義盛と親戚の横山党による挙兵といわれますが、それだけではなく北條氏独裁に反対した多くの御家人たちが一味同心しました。頼朝挙兵のとき、三浦党と並んで主戦力となって戦った中村党の土肥・土屋兄弟も和田方へ味方しました。彼等の妹婿になった岡崎義実三浦義明の弟ですが、当然のごとく同心しています。また、鎌倉党の大庭景兼はじめ誅殺された梶原景時の遺臣たちも参戦しました。

和田義盛の挙兵は誰かを旗印に担いだ様子もないから、単に幕府に対する謀叛というより、北条氏を倒して玉である将軍実朝を奪おうとしたのかもしれません。申の刻というから午後四時ごろ、義盛の館に集まった軍兵が出撃し、二時間後の酉の刻には幕府御所の四面を取り囲んで一斉に攻め、御所に火を放って警護の武士と攻防になりました。炎上する御所から実朝は辛うじて法華堂へ脱出しています。

幕府側は波多野忠綱が先頭に立ち、また三浦義村がこれに馳せ加わっていました。 義村は同じ三浦党として和田義盛と誓紙を交わしたにもかかわらず、幕府側へ寝返ったのです。波多野氏も忠綱の従兄弟の盛通が和田について敵味方に別れて戦いました。

和田氏の同族でも義盛の甥の高井重茂は幕府側となり、義盛三男の朝比奈義秀と攻戦し、互いに落馬して組討の果てに討たれています。義秀は和田勢で最も奮戦し『吾妻鏡』は「神の如き壮力、敵する軍士ら死を免れる者無し」と称賛しています。

しかし、日が暮れ夜になっても戦った和田方は疲弊して前浜の辺に退きました。翌朝、寅の刻、午前四時ごろ、横山党の横山時兼が一族を率いて到来して義盛の陣に加わりました。彼等の脱ぎすてた蓑笠は積んで山を成したといいます。

横山党が和田の乱に加担したのは一重に和田氏との姻戚関係からです。和田義盛の妻は横山時兼の伯母であり、嫡男和田常盛の妻も時兼の妹でした。同伴した渋谷高重の妻も時兼の伯母にあたります。その他、海老名、波多野、梶原氏など多くの親戚関係者が横山党に組したのです。

辰の刻、午前8時になると曽我・中村・二宮・河村の輩が幕府側の応援に押し寄せ、とりわけ泉親衡謀反を暴く切っ掛けをつくった千葉成胤は党類を引率して上総から遠来、大活躍したといいます。戦場は若宮大路を中心に市街各所で激戦となり、新手を繰り出してくる幕府軍に対して、和田方は次第に疲弊し、数を減らしていきました。

酉の刻、午後6時には和田義盛の四男義直が討ち取られると、最早合戦も益無しと声を揚げて悲哭し、遂に息子らと供に討たれてしまいました。

そんななかで朝比奈義秀は戦場を脱し、船六艘、兵五百騎とともに安房国へ逃れたと伝えられます。また、横山時重と妹婿和田常盛は横山党古郡保忠の領地である甲斐国坂東山波加利庄まで逃げて、そこで自殺しました。相模川の上流、桂川を遡って笹子峠の麓に位置する初狩の辺りといわれます。

彼等は何故こんな処まで逃げたのか。峰ひとつ越えた処に、かつて横山党の領地であった田原(都留市)に小山田氏がいました。横山時兼の曾祖父孝兼の娘が秩父重弘と結婚したとき田原の私領を持参し、その子の小山田有重から六郎行幸相伝されて居ついたものです。もしかして、彼等はここを根拠に反撃しようとしたのかもしれませんが、辿り着くことなく果てたのです。彼等の首はその日のうちに届けられ、合戦後、固瀬川に梟された和田方の首級は百三十四あったとされます。

和田常盛の子の和田朝盛は将軍実朝の近臣だったことから挙兵に反対して出家して逃げたものの義盛に呼び戻され、法衣のまま出陣していましたが、再び逃げ延びたといわれます。和田方で他にも逃げ延びた者もいました。翌年の十一月、泉親衡謀反に担がれた千寿は出家させられて栄実と名乗っていたのを、和田の乱の残党に擁せられて六波羅を襲おうとした企てが漏れ、京都一条北辺の旅亭を襲われ自害しています。

和田一族で生き残ったのは義盛の甥の高井重茂の子孫です。義盛弟の和田義茂が木曾義仲追討に功として得た越後国奥山庄の地頭職にその弟の宗実が補され、義茂の子の重茂が宗実の娘婿となって継いでいました。重茂は朝比奈義秀に討たれたのですが、その子孫が栄えました。

多摩と相模の横山党は族滅し、横山荘は大江広元に与えられました。横山氏の名が歴史的に残るのは、管見によれば多摩府中の武蔵国総社六所神社(大国魂神社)神主が明治になって品川県庁へ提出した「社職家系」の中に、御旅所御饌司として本姓小野氏、族称横山氏の名がのこるのみです。総社六所神社の一宮とされる小野神社の関係からでしょうか。


彼等は何故、敗れたのでしょう。兵力の差はともかく、その親類縁者など血縁を基本にした関係でしかつながっていない点にあるように思えます。それは幕府側の北條氏も同じことでした。家督を継いだ得宗家中心の鎌倉後半の幕府を倒したのは、血縁を越えて利害を供にした地縁組織による一揆であったことが、何よりそれを物語っています。


   山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも


将軍源実朝の『金槐和歌集』最期をかざる歌です。和田合戦以降ますます京都へ傾いた実朝が殺されたのは六年後のことでした。