2006-01-01から1年間の記事一覧

27 比企の乱

頼朝の没した後の将軍職を継いだのは頼朝の嫡男で十八歳の頼家でした。 頼朝を生んだのは頼朝の正妻の北条政子ですが、頼朝の乳母だった比企尼以来の嘉例を理由に産屋からして比企氏の館があてられ、頼家が生まれると直ぐに乳母となった比企氏の娘たちに取り…

26 景時謀叛

伊豆の流人頼朝に平氏打倒の挙兵を仕向けた一人に怪僧文覚がいます。当時なら何処にでも転がっていそうな髑髏を拾ってきて、これが頼朝の父義朝のものだと見せて、父の敵討ちをせぬかとそそのかしたのです。それは流人時代の頼朝の夢枕に立った鎌倉の稲荷神…

25 御霊と稲荷

富士の裾野で死んだ曾我兄弟は後に富士郡六十六郷の御霊神として祀られました。仇討ちを果たしたものの頼朝殺害に失敗して非業の死を遂げた兄弟は御霊神となり、守護霊として祀られたのです。富士郡は北条時政の所領ですから、そこから頼朝殺害を計った張本…

24 富士の裾野

元暦元年(1184)正月二十日、近江国栗津(大津)で木曾義仲が阪東の大軍に攻められて敗死してから数ヶ月後、鎌倉に人質になっていた義仲の嫡男清水冠者義高は、大姫や付け人の計らいで脱走したものの、入間河原まで逃げて追手よって誅殺されてしまいました。い…

23 総社六所宮

元暦元年(1184)六月、信濃源氏の平賀義信は頼朝によって武蔵国の国司および守護人として武蔵守に任命されました。八月には伊賀国で戦功を重ねた嫡男の大内惟義が相模守となり、両国を父子で支配するほど頼朝に信頼され、常に御家人の首座に位置づけられてい…

22 阪東独立国

阪東謀叛の報は直ちに京へ伝達され、これをうけた平氏は平惟盛を大将として数万の軍勢を東国へ出発させました。このとき頼朝軍はまだ墨田河の東、下総国にいたのですが、平氏軍の来襲を予測しており、石橋山から使者として甲斐へ向かった北條時政に対して、…

21 阪東謀叛

阪東八カ国の侍奉行として上総介となった藤原忠清は、同族の伊北庄司常仲と抗争の末に家督を得た上総権介広常の在庁諸職を取り上げようとしていました。弱みにつけこまれた上総広常は反発し、子息の能常を上洛させて事情説明したのですが、平氏は納得せず、…

20 平氏打倒

平治乱以後、後白河院と二条天皇の間は不穏な関係にありました。互いに呪詛や近臣の解任・流罪が展開され、二条の病死によって即位した六条を五歳で譲位に追い込み、八歳の高倉を即位させました。高倉は平清盛の妻時子の妹建春門院滋子の生んだ後白河の皇子…

19 伊豆箱根異変

保元乱の後、為朝は伊豆大島へ流されました。また三年後の平治の乱には頼朝が伊豆国へ流されています。為朝が伊豆諸島を占拠して叛乱を起こしたの対し、伊豆国衙の在庁官人狩野介茂光が院宣によって討伐したのは、およそ十年後のことでした。朝廷は為朝の叛…

18 平治の乱

保元乱から二年後、中継ぎの天皇後白河は約束通り守仁親王に譲位して二条天皇が即位しました。翌年の平治の乱の勃発は上皇となった後白河院の左京三条東殿を、源義朝の軍勢が包囲して放火、後白河とその姉上西門院を内裏に二条天皇と供に幽閉するという事に…

17 保元の乱

源義朝の嫡男三浦の義平が、武蔵国衙の在庁官人の首席であった留守所総検校職の秩父重隆を討てたのは何故でしょう。少なくとも武蔵国の国司は、武蔵国衙の在庁官人襲撃を黙って見過ごすはずが有りません。実は当時の武蔵守は義朝と同じく鳥羽上皇の院近臣藤…

16 大蔵館急襲

そのころ武蔵国で勢力を有していたのは秩父平氏の秩父次郎大夫重隆でした。横山党を追補した秩父重綱の次男で、横山隆兼の娘を妻とした長男の秩父太郎大夫重弘をしのいで、秩父氏の家督と秩父氏の累代にわたる武蔵国衙の留守所総検校職に就いていたことから…

15 京都の対立

京の源為義は白河院近臣の藤原忠清の娘を妻にして、白河院の孫で幼い鳥羽天皇の身辺警護の役に就いていたのですが、相変わらず昇進もできずに低迷していました。そんな為義に手を差しのべたのは、白河院と対立して関白の地位を追われた摂関家の大殿忠実でし…

14 阪東平氏

横山党は相模目代殺害によって追討されたのですが、愛甲荘司を得たばかりでなく、直接追討した相手方とも姻戚関係を結んでいます。追討したのは秩父重綱・三浦為継・鎌倉景政の三人ですが、いずれも秩父平氏流を称する阪東八平氏です。三浦為継と鎌倉景政は…

13 相模国進出

源為義は六条判官と呼ばれるように検非違使として京都に在住していたのに、相模国の愛甲荘を熊野山領として寄進しています。愛甲荘に接した毛利荘は為義弟の陸奥六郎義隆が領していました。為義・義隆兄弟は父義家の奥州合戦が終ってから十年後に生まれてい…

12 源氏没落

奥州合戦の後、源義家は官職もないまま十年間放置されました。白河上皇は義家の代わりに弟の義綱を陸奥守に起用したのです。一般に、奥州合戦の戦功によって義家の勢力が拡大することを白河上皇が怖れたからだと言われます。しかし、源義家は平将門や忠常の…

11 奥州合戦

阪東における清和源氏とは、言わばだったのです。源頼信が鎌倉に源氏の拠点を持ったとき、阪東は既に阪東八平氏や藤原秀郷の子孫、それに武蔵七党などの在地領主によって占められていました。そこへ清和源氏が割り込むには相当の無理を強いる必要があったの…

10 在地領主

将門の乱から一世紀近い後の万寿五年(1028)、房総半島で阪東諸国を巻き込んだ平忠常の乱が起きました。都では我世の春を謳歌して政権を主導してきた藤原道長の没した年のことです。平忠常は上総・下総・安房国またがって私営田を経営し、在庁官人として上総…

09 母族横山氏

赤駒を山野に放し捕りかにて 多麻の横山歩ゆか遺らむ 武蔵国衙のあった府中から見て多摩川対岸のの地は、『万葉集』にも多摩の枕詞として歌われ、都人にも知れていました。そこには、畿内の古代氏族小野氏が武蔵国司や多摩の小野牧別当として赴任する以前か…

08 多摩の横山荘

古代の律令制度による地方支配は受領国司によるものでしたが、実態は在地首長の郡司が持っていた伝統的な権力を前提にして徴税を請負わせていました。その結果、徴税をめぐって国司と郡司の間に必然的に対立が生じます。また、地方へ下向して土着した王族や…

07 勅旨牧小野牧

律令制のはじめ、馬牧は建前として全国一律に官牧が設置されました。その主な目的は軍団に対する騎馬の貢納による供給にあります。しかし、馬牧に適する地域と不適な地との差は抗しがたく、特定の地域以外は次第に衰微し、廃止されてしまいます。また、軍団…

06 多摩郡小野郷

先日は、武蔵守小野(高向)利春が多摩郡の小野神社の祭神を天下春命>に変えた経緯を考えてきましたが、では元の祭神であったはずのが否定された理由は何だったのでしょう。また、そのは何処へいってしまったのか。小野(高向)利春がまだ刑部丞として平安京に居…

05 武蔵守小野利春

武蔵七党横山党が誕生する直前、国司として二十年近くも武蔵国を支配した小野利春という男がいました。小野氏系図によると、利春は小野篁の孫の小野美材の次男に生まれ、延喜頃、高向氏へ養子に出たらしいのです。美材は延喜二年(902)に没しているので、その…

04 兵家小野氏

古代氏族としての小野氏の特徴は、遣隋使小野妹子に代表される外交と征夷副将軍小野永見に代表される軍事に関わったことにあるようです。政治の平和的手段が外交であるとすれば、軍事はその強行的手段であり、いずれにしても畿内政府において、小野氏の硬軟…

03 小野猿麻呂

先に断っておきますと、一般に混同されてますが、歌人の猿丸大夫とこれから述べる小野猿麻呂は別人です。猿丸大夫は柿本人麻呂だとする梅原猛説(『水底の歌』)もあるように藤原京時代人でした。小野猿麻呂は長岡京から平安京初期の人で、その間、百年ほど時…

02 流人小野金善

武蔵国の北方に毛国があります。上下に分かれて上野国(群馬県)と下野国(栃木県)に分かれました。東山道(中山道)の碓氷峠を越えて阪東に入ると、最初の国が上野国です。 上野国府の前橋の北二十粁ほどの処の吾妻川沿いに、小野上村と呼ばれた地があります(今…

01 横山党小野氏

武蔵七党武士団横山党の名は、多摩川下流域の南岸に連なる丘陵地帯がと呼ばれた地域に居住していたことに由来します。武蔵国衙のあった府中の多摩川対岸にあたる関戸のあたりから、八王子・淺川あたりまでがといわれました。このように横山党の横山氏にかぎ…

はじめまして

HPでは阪東の歴史をあつかってますが、ここではさらに絞って、平安朝末期から鎌倉初期のはじめに誕生したの古武士を追っかけようと思います。といえば、明治の国木田独歩の『武蔵野』、昭和の大岡昇平の『武蔵野夫人』(新潮文庫)、あるいは三浦朱門の『武…