04 兵家小野氏

古代氏族としての小野氏の特徴は、遣隋使小野妹子に代表される外交と征夷副将軍小野永見に代表される軍事に関わったことにあるようです。政治の平和的手段が外交であるとすれば、軍事はその強行的手段であり、いずれにしても畿内政府において、小野氏の硬軟にわたる政治的な存在であったことを表わしています。そして、こうした政治的立場を離れたときも、各地に流れて神人に就いたことは、神人としての能力よりも外交手腕にあったのではないかと思われます。


桓武蝦夷侵略戦は晩年になって中止されるのですが、それも天下を苦しめているのは並行して続けられている平安京造都と蝦夷征伐だから、二つを止めるべきだという参議藤原緒嗣の徳政相論によってのことでした。翌年、桓武が没して平城天皇の時代になると、藤原緒嗣は奥羽の政状調査や民情視察する按察使(あぜちし)に任命されていますが、本人は現地に就かない遙任でもあり、目立つ行動は起こさなかったのです。

ところが、その二年後の弘仁元年(810)文室綿麻呂陸奥出羽按察使に任命されると、再び蝦夷侵攻作戦の計画がはじまりました。これは前年の平城上皇嵯峨天皇が対立した藤原薬子の変に際し、上皇側について禁固に処せられた綿麻呂が汚辱を晴らすために功をあせった感じが強い作戦です。

しかし、兵員が足りないという状態で中止になってしまいます。この頃の政府軍の軍制は最早律令制の農民の徴兵による軍団制度は長岡京の時代に崩壊していて、郡司や有力豪族の子弟から弓馬に達者な者を選んだ健児(こんでい)制よる軍団でした。その数、阪東にあって千人足らずでしたから、軍団の用をなさい状態だったのです。

そこで採用されたのが、夷をもって夷を制する用兵でした。度重なる蝦夷侵略侵略戦に投降帰順した蝦夷を、俘囚という名の捕虜として各地に分散収容していたのですが、これを蝦夷戦に投入しようというのです。兵站基地だった阪東は、一万人ほどの俘囚が収容された俘囚基地となっていました。

また、陸奥国に対する最前線にあった阪東の上総・常陸上野国の国主に、現地へ就かない遙任のまま、親王を任命する親王任国制の国として、皇威をもって言わば恫喝しようとしたのです。

弘仁4年(813)になると文室綿麻呂征夷大将軍に任命され、俘囚軍を率いて陸奥國を攻めています。このとき、官職は不明ですが小野石雄が参戦していました。征夷大将軍坂上田村麻呂の元で副将軍だった小野永見の子です。二年後、綿麻呂が解任された後、石雄の兄の岑守が陸奥守になりました。さらに三年後には石雄の弟の滝雄が出羽守に就いていて、一説に滝雄は小野小町の父かといわれています。滝雄の後任には峰守の子で篁の弟の千株が就きました。

こうした畿内政権の蝦夷侵略は陸奥出羽国蝦夷ばかりでなく、投降帰順した俘囚たちの恨みを買うことになり、各地で叛乱を起こさずにおきません。元慶二年(878)の春から冬にいたる出羽国の俘囚によって起きた<元慶の乱>は、畿内政権も蝦夷の<怨乱>として自覚させずにはおかなかったのです。秋田城司の強引な課税が引き金となって、従来からの過酷な治政に怨嗟が積み重なり、蜂起した俘囚たちは秋田城を襲い、郡役所や民家に放火したため 出羽国司は鎮圧軍を出したものの、秋田郡南域は反乱軍の手に帰し、その勢力は増すばかりでした。小野石雄の子で出羽権掾小野春泉や陸奥横領使藤原梶長などは兵五千を率いながら、秋田城で甲冑三百領や騎馬千五百疋を奪われる大敗北を喫したのです。

政府軍は何故これほどの敗北を喫したのでしょう。既に三十数年前の正史『続日本後紀』は「弓馬の戦闘は蝦夷にとっては天性のもの、特技中の特技である。政府軍の十をもってしても、その一にも敵することができない」という認識があったにも関わらず、前線ではあなどっていたのかもしれません。つまり、政府軍の軍事力が決定的に不足していたのです。


そこで起用されたのは備中・備前国で善政を敷いて評判の高かった藤原保則でした。出羽権介となった保則は、そこで對馬守として新羅海賊問題にあたっていた小野春風を推薦して鎮守府将軍に据えたのです。この春風も小野石雄の子で、新羅防衛の最前線であった對馬守に就いたとき、政府に対して甲冑の上に着て矢を防ぐ保侶衣と携帯食料を入れる納備袋を千組申請して許可されています。また、父石雄が着た羊革の鎧を陸奥から送ることを奉言して許され、兄で陸奥守小野春枝を通じて給されました。

歴戦の小野春風坂上田村麻呂の曾孫で陸奥坂上好蔭とともに採った対蝦夷叛乱軍の鎮圧作戦は、軍事的な征服や討伐ではなく、投降降伏の説得でした。春風の兄弟はじめ父や祖父たちが累代にわたって陸羽戦に関わってきたことから、若い頃から辺境の夷語に精通していたのです。藤原保則の平和政策を春風の熟達した夷語を駆使して反乱軍を説得投降させ、さしもの大反乱も終息させたのです。

征夷副将軍小野永見から続く小野氏とは、歴代のわたって対蝦夷線や対新羅海賊に関わり、田村麻呂を出した坂上氏や文室氏に劣らぬ軍事官僚であり<兵の家>として認められていました。しかしその後、約半世紀後に生まれる平氏や源氏に並ぶような軍事貴族へとつながることはなかったのです。