05 武蔵守小野利春

武蔵七党横山党が誕生する直前、国司として二十年近くも武蔵国を支配した小野利春という男がいました。小野氏系図によると、利春は小野篁の孫の小野美材の次男に生まれ、延喜頃、高向氏へ養子に出たらしいのです。美材は延喜二年(902)に没しているので、その晩年か没後にに利春は養子になったことになります。ということは、天皇詔勅宣命をつくる太政官の外記である大内記の職にあった父美材の恩恵をあまり受けられなかったからかもしれません。

それでも小野利春の名が記録に表れるのは延喜五年(905)八月、仁寿殿において宇多上皇秩父牧の馬を御覧にいれたという『西遊記』の記事です。そのとき利春は宇多上皇の私領であったと思われる秩父牧の牧司でした。つまり利春は宇多院の院司であったらしいのです。

宇多天皇醍醐天皇に譲位したのは寛平九年(897)のことで、美材が大内記になったのはそれ以降でしたが、宇多天皇には小内記として務めていましたから、そんな関係から利春は宇多院の院司に引き立てられたのでしょうか。

もう一つ考えられることは、利春は寛平二年(890)、宇多天皇の時代に刑部丞に就いていたのですが、刑部省はその機能が嵯峨天皇によって設けられた検非違使に吸収されていく時期でしたから、 思い切って地方へ転出したのかもしれません。

その後、利春は延喜十年(910)になると武蔵国司の三席、権小掾となるのですが、これも宇多上皇の引き立てでした。というのも、当時の武蔵国宇多院の御給分の国で、従五位以下の位を受ける官人を推薦できる権利を持っていたので、利春は相当の任料を御礼として払って任官したはずです。そして翌年には武蔵国司次席の武蔵介になり、三年後には従五位下を受けていますから、今度は宇多院に相応の叙料を納めたはずです。

さらにそれから四年後の延喜十八年(918)、小野(高向)利春はとうとう武蔵守になるのですが、事件はその翌年に起こりました。前武蔵権介の源仕武蔵国衙を襲い、正倉の官物を運び取り、官舎を焼き払って利春を攻めたのです。


宇多天皇が譲位したとき未だ三十五歳でした。継いで即位した醍醐天皇元服したばかりの十三歳で、宇多は上皇として院政を敷いていたのです。在位当時からの宇多の国政改革は寛平七年(895)に出されたもので、五位以上の王族や上層貴族の京都居住の義務化と、地方民が氏姓や戸籍を偽って京都に住み着くのを禁止
したことでした。この政策は代替わりした醍醐が成人したとき、最初の荘園整理令として具体化されます。

つまりそれだけ当時は荘園制の発達によって、王族たちが地方の勅旨開田地に荘園を持ち、それを分与された子弟が下向して住み着いたり、あるいは浮浪・寄留していたのです。武蔵国司小野(高向)利春を襲った源仕もそんな一人だったのです。源仕は大納言源昇の次子で、祖父は宇多の新政を太政官符をもって発布した左大臣源融だったことは皮肉でした。

因みに、宇多の父の光孝天皇は一度は仁明源氏として臣籍降下し、源定省という
臣姓を名乗っていて、その対抗馬として自薦したのが嵯峨源氏源融だったのです。世が世なら孫の源仕も朝堂にあってそれなりの立場に成り得たかもしれず、そんな不満が宇多上皇に引き立てられる小野(高向)利春に向かったのかもしれません。


小野(高向)利春は武蔵守として延長六年(928)まで、十年間も武蔵国に君臨しています。権小掾として赴任してから十八年間になりなす。その間、利春が何をしたかは特に記録は有りませんが、一つの憶測をすることができます。

中央政府から派遣される国司の役割の第一は言うまでも無く徴税にあるのですが、そのためには地方住民を慰撫する手段として、まず国内の有力な神社を廻って参拝・奉幣することでした。とりわけ国衙の地元にある神社へは第一に廻ります。それが多摩郡の小野神社だったのです。

古代氏族小野氏から出た小野(高向)利春の任地に、既に小野神社が祀られていました。それは利春が赴任する以前からあったのですから、近江国山城国で小野氏が祀る小野神社とは別の神社ということになります。小野氏の本拠近江国の小野神社の祭神は武蔵国では祀られていないからです。

多摩郡の小野神社は延長五年(927)に完成した『延喜式神名帳に記載された多摩郡に十座ある式内社の一つですが、それ以前から祀られていました。『三代実録』元慶八年(884)七月、それまで従五位上だった武蔵国の小野神社の神格が正五位上に上げられました。この年の二月、即位したばかりの光孝のときです。

さらに翻ると、宝亀三年(772)九月に神祇行政を司る神祇省に対する太政官符があります。桓武の父光仁天皇奈良時代です。


太政官神祇官に符す 幣帛を神社に奉るべきこと
右、去年九月二十五日、武蔵国司の解を得た。今月十七日、入間郡の正倉四宇に着火し、焼くところの糒穀惣じて一万五百壱拾参斗消失す。百姓十人たちまち重病に臥し、頓死二人なり。卜占するに、郡家の西角にある神、出雲伊波比神が祟りて云く、我常に朝廷の幣帛を受給う。しかるに頃年の間給わらず。これにより郡家内外にあるところの雷神を引率し、この火災を発すなり。よって祝外大初位下小長谷部広麿を勘問するに申して云わく。実に常に朝廷の幣帛を奉る神なり。しかるに頃年の間給ひ下さず。よって案内を検するに、去る天平勝宝七年十一月二日の太政官符に云う、武蔵国の幣帛に預かる社四処、多摩郡小野社、加美郡今城青八尺稲実社、横見郡高負比古乃社、入間郡出雲伊波比社なり。官符に灼然なるも、時々幣帛を奉るに漏れ落すもの。右大臣宣す。勅を奉はるに、例によりて施行せよ。官宜しく承知し、勅に准じて施行せよ。符到らば奉行せよ。
参議正四位下行右大弁兼右兵衛督越前守藤原百川
           左大史正六位上曾賀臣真綱
  宝亀三年十二月十九日


これとほぼ同じ内容の太政官符が人事を担当する式部省に発布されていて、出火元の入間郡司の落度とされ、郡司は解任されています。

この官符で注目したいのは、入間郡家の正倉が焼けたのは落雷によるものでしょうが、出雲伊波比社はじめ四社は<雷神>を祀っていたと読めることで、その中に多摩郡小野神社があったことです。

小野神社の由緒では<雷神>を祀っていたなど伝えておらず、祭神はもっぱら<天下春命>です。祭神が<雷神>から<天下春命>へ何時変わったのか、記録の上では分かりません。<雷神>はともかく<天下春命>とは何者でしょう。小野(高向)利春が武蔵国司に就く前は、宇多上皇秩父牧の牧司でした。秩父郡中村にある式内社秩父神社の祭神は、武蔵国に併合される以前の秩父国の初代国造とされる<知知夫彦命>ですが、これは『先代旧事本紀』の国造本紀によると、<天下春命>の十代孫とされています。さらに言えば、神統譜によると<天下春命>は磐戸隠れした天照大神を引出す思案をめぐらせた思兼命の子とされています。

ところで、武蔵国秩父国を比べてみると、山沿いの秩父国の方が早く人が住み着き、海沿いの武蔵国は後から開けたと思われます。それは伝承に過ぎないとしても、先の国造本紀に記された両国の国造が生まれた順序にも現われています。皇統譜秩父国は神武から数えて十代目の祟神のとき、武蔵国は十三代目の成務のときにそれぞれ国造が生まれています。

秩父郡から多摩郡国衙に来た武蔵国司小野(高向)利春としては、それに我慢がならなかったのではないか、と憶測されます。そこで<雷神>を祀ていた小野神社の祭神を、<知知夫彦命>の祖神にあたる<天下春命>に変えたのではないか。

それは間もなく生まれる武蔵総社一の宮としての小野神社への布石ではなかったかと思えてならないのです。