06 多摩郡小野郷

先日は、武蔵守小野(高向)利春が多摩郡の小野神社の祭神を<天下春命>に変えた経緯を考えてきましたが、では元の祭神であったはずの<雷神>が否定された理由は何だったのでしょう。また、その<雷神>は何処へいってしまったのか。

小野(高向)利春がまだ刑部丞として平安京に居たころ、右大臣菅原道真が突然大宰府へ配流同様に左遷されています。道真はその学識の高さから宇多天皇天皇によって登用され、醍醐天皇の治世下で右大臣になったのですが、その直後、娘婿の斉世親王擁立の疑い有りという左大臣藤原時平の訴えで、大宰府へ流されてしまったのです。そして二年後には配流先で没してしまったのですが、二ヶ月後になって無実を認められ、配流の宣命を焼却、勅命によって<火雷天神>と号されました。

こけだけの事なら辺境の武蔵国から遠い彼の地の話ですが、道真配流のとき、三男の道武もまた武蔵国多摩郡へ流されたのです。道武は父の無実が認められてからも帰京せず、土地の津戸氏の娘との間に子をもうけて土着しました。はじめ道武は手彫りした父の仏像を、多摩川の中州の天神島に祀って菩提を弔っていました。現在の中央高速道路国立府中ICの辺りが天神島跡と伝えられ、その北側に子孫が神主として祀った谷保天満宮があります。

小野(高向)利春が武蔵国司として赴任したとき、多摩の菅原氏の存在を知らぬはずはないでしょう。何しろ利春赴任の前年、道真を訴えた時平が三十九歳で若死去すると道真の祟りと噂され、利春在官中には醍醐の皇太子が次々二人も死去しまったときも同様でした。そして遂に皇居の清涼殿に落雷があって、殿上に待していた貴族が死傷すると、醍醐は道真の怨霊を信じて三月後には四十六歳で病没してしまったのです。

多摩川の天神島に、そして谷保天満宮に道真の<火雷天神>が祀られたことによって、小野神社の<雷神>は自ら撤退を余儀なくされたのではないか、と思われるのです。

また、定かな伝承ではないのですが、八王子市の市街地にある横山党の根拠地といわれる処から二粁ほど離れた北野町に、横山党の一族が京都の北野天満宮を勧請したと伝える神社があります。京都の北野天満宮は罪なくして死んだ道真の怨霊を鎮めるため、醍醐の没後、内裏の北に創建されたものでした。それを伝承のごとく横山党が勧請したのだとすれば、かつて小野神社に祀られた<雷神>と習合させたと見なせます。


さて、多摩郡の小野神社は谷保天満宮から遠くない位置で、多摩川を挟んで南北の両岸にあります。昔から式内社の小野神社はどちらかという議論が繰返されてきたのですが、とりあえず、多摩の横山の麓にあって一宮とされる南岸の小野神社としておきます。

問題は、どちらが式内社の小野神社かということより、小野神社は小野郷に祀られたであろう、その<小野郷>の位置にあります。

多摩郡<小野郷>の地名は承平年間(931-938)に完成した『類聚和名抄』に載る<小野郷>が引き合いに出されますが、もっと昔から有ったことが確認されています。先に宝亀三年(772)の太政官符、平城京光仁天皇の時代に小野神社の名があることを挙げました。小野神社があれば<小野郷>もあったろうという類推ではありません。この三十年ほど前に聖武天皇の勅によって諸国に国分僧寺・尼寺の創建が命じられ、武蔵国分寺も建立されまた。この武蔵国分寺跡から<小野郷>と刻印された瓦が出土しています。従って、小野郷も小野神社も奈良時代から既に存在したことになります。<小野郷>は多摩郡に十一か十二郷あったものの一つで、律令により五十戸をもって一郷を構成していました。小野神社はその中心的な社であったはずです。


もう一つ、小野の地名に関わって重要なのは<小野牧>の存在です。その名が記録に表れるのは『日本紀略』延喜十七年(917)九月七日の記事です。陽成上皇の小野牧の駒三十疋を醍醐天皇に仁寿殿にて御覧の後、十七疋を陽成上皇に返された、というものです。

陽成上皇は醍醐の三代前の天皇で、禁中で馬を駆けさせるほど馬好きだったのですが、乳兄弟で嵯峨源氏の源益を殴り殺し、在位わずか八年、十七歳で退位させられています。上の記事のときはまだ三十代はじめの頃でが、退位後は八十二歳まで生きた長命でした。

この<小野牧>の名が初出したころ、小野(高向)利春はまだ武蔵介でした。当時の<小野牧>は陽成上皇の私領とはいえ、律令制以来の官牧でしたから武蔵国司の支配下にあったはずです。かつて宇多院秩父牧で牧司だった利春が<小野牧>に関心を寄せないはずはないからです。

小野(高向)利春が武蔵国から甲斐国へ転出してから三年後の承平元年(931)八月、陽成上皇の<小野牧>は勅旨牧に変更されました。そして散位小野諸興が<勅旨牧小野牧>の長官である別当に補任されています。散位(さんに)は散官ともいわれ、位階だけあって官職はなく、散位寮の指揮下あった者を指すので、小野諸興は京都から赴任した小野氏の一員です。、

そうすると陽成の小野牧の駒三十疋を仁寿殿に御覧いれた牧司は、誰だったのかという疑問が生まれます。律令時代からの官牧なら、そこに携わった馬飼や牧司がいたはずです。

ここに武蔵国多摩郡の小野郷にあって小野神社を祀り、しかも小野牧を経営したであろう先住した集団の存在を想定できます。そこへ武蔵国司小野(高向)利春や散位小野諸興が別当として中央から赴任して来たのです。