20 平氏打倒

平治乱以後、後白河院二条天皇の間は不穏な関係にありました。互いに呪詛や近臣の解任・流罪が展開され、二条の病死によって即位した六条を五歳で譲位に追い込み、八歳の高倉を即位させました。高倉は平清盛の妻時子の妹建春門院滋子の生んだ後白河の皇子ですから、この頃から清盛と後白河との密月と平氏一門の栄華も約束されたのです。

さらに清盛の娘の建礼門院徳子が高倉に入内し、これで皇子が生まれれば平氏摂関家のように外戚として権力を振るえる高倉王朝となったのですが、四年後の安元二年(1176)七月、後白河と平氏を一点で結んでいた滋子が胸に腫れ物を発して三十五歳で没してしまったのです。徳子が高倉の皇子安徳を生んだのは同じ年の十一月でした。

翌月には安徳が立太子するのですが、後白河院の子には高倉の兄でまだ出家していなかった以仁王がいて、高倉即位のときから対立候補とみられていたのです。平氏と後白河を結んでいた滋子の死によって、にわかに注目されたのが以仁王の存在でした。

以仁王鳥羽法皇と美福門院徳子の間に生まれた近衛天皇の姉で、後白河の異母姉でもある八条院翮子の猶子になっていました。生涯独身であった翮子は両親から膨大な所領を譲られていました。また、以仁王八条院に可愛がられた女房の三位局との間に一男一女をもうけ、二人は翮子に養われて、姫宮は八条院領の大部分を継ぐ地位にあったといわれます。一男は後に木曾義仲によって擁立された北陸宮です。平氏政権に不満を持つ宮廷の反勢力は自然に八条院以仁王のまわりに結集したのです。


治承三年(1179)夏、後白河院は高倉の継ぐはずの内大臣平重盛妻の領地を取り上げて、平氏の徴発に出ました。十一月十五日、清盛は福原から数千の兵を率いて上洛、後白河を鳥羽離宮へ幽閉、関白基房はじめ院近臣四十名を罷免してしまいました。さらに以仁王の洛中九条の常興寺とその荘園郡を奪い、平氏の氏寺とした比叡山延暦寺天台座主明雲へ渡し、山門宗徒を平氏の味方に囲い込んだのです。

そして、翌年二月には三歳の安徳天皇を即位させ、高倉上皇院政を開始して、後白河院政を停止しました。当然のことながら実権は清盛のものです。全国六十六ヶ国の内、平氏知行国は三十余国、荘園田畑数知れずといわれたのは、このときからでした。しかも、清盛は畿内に対して広域的な軍事厳戒体制を敷いたことでした。

そして四月九日、平氏政権を打倒し自ら新皇として即位する意志を掲げた以仁王の令旨が、密かに東国の八条院領に発せられたのです。以仁王の謀叛が露見したのは五月にはいってからでした。平氏の軍勢が以仁王の屋敷である三条高倉御所を襲う前に、以仁王平氏の氏寺延暦寺に対立して後白河の肩入れの強かった園城寺へ逃げ込んでいました。そこへ合流したのが自分の屋敷を焼き払ってきた摂津源氏の三位頼政です。

頼政は大内守護の本務の側ら、日頃から八条院にも出入りしていたのですが、以仁王の謀叛に加担していたなど平氏はこのとき初めて知ったのでした。なにしろ頼政清和源氏の一流にも関わらず、保元・平治の乱には清盛側に着いて戦ってきました。しかも、この二・三年前、清盛の推挙によって従三位に登った七十歳の老武者だったのです。

以仁王頼政の戦略は園城寺延暦寺および興福寺の悪僧を語らって、鳥羽離宮へ幽閉された後白河法皇を奪還することにあったようですが、園城寺にも平氏に組する勢力もあって説得に手間取り、結局南都の興福寺へ逃げようとして、宇治の平等院で激戦となり、頼政の率いる摂津渡辺党の五十余騎は、平氏軍の三百余騎によって全滅してしまいました。園城寺の悪僧に守られて興福寺を目指した以仁王も、途中で射抜かれて首を取られました。清盛が急遽福原遷都を強行したのは、平等院の戦いの数日後のことです。


伊豆国知行国源頼政の没落によって中納言平時忠知行国となり、猶子時兼伊豆守に、それ以前から父と喧嘩して伊豆へ流されていた山本兼隆が元検非違使の武力を買われて現地の目代に起用されました。

一方、平治の乱に没落した源義朝亡き後、大庭三郎景親は平氏に近づいて勢力を伸ばし相模国衙の在庁官人である三浦氏などを脅かしていました。そして景親が大番役で上洛しして八カ国の侍奉行藤原忠清に対面したとき、伊豆の北条時政と武蔵の比企掃部充等が伊豆蛭島郷の流人源頼朝を擁して謀叛の企てがあるという、尾張の長田入道からの報告の真実性を問われています。また、清盛から私的に頼政の子で元伊豆守の子息有綱の追討を命じられたのです。景親が相模の武士団を率いて伊豆国衙を襲ったとき、有綱は奥州へ逃げ出した後でした。当時は奥州藤原氏の元にいた源義経の妹が有綱の妻だったからです。

ところが、時あたかも伊豆蛭島郷の流人頼朝が、伊豆・相模などの反平氏勢力を語らって挙兵、目代山本兼隆の首をあげました。伊豆を出て相模の石橋山へ陣取った参百騎の頼朝勢に対し、大庭景親は三千騎をもって襲い、蹴散らしてしまいました。以仁王頼政畿内で蜂起・全滅してから三ヶ月後の事です。

武蔵国平治の乱の翌年から平知盛知行国となり、その後ほぼ平氏の知行下にあり、その子息らが武蔵守に補任されていました。頼朝の挙兵に対して秩父平氏嫡流畠山次郎重忠は五百騎を率いて追討についたのですが、鎌倉の由比浜で石橋山の合戦に合流すべく出発した三浦一族がに間に合わず撤退してきて遭遇、睨み合いのうえ数刻の合戦で畠山軍は三百騎の三浦勢に敗退してしまいます。

そこで畠山重忠は庶流ながら家督である河越重頼に援軍をたのみました。重頼は国衙の留守所総検校職の職権をもって同じ秩父平氏流の江戸太郎重長はじめ武蔵七党武士団を集め、三浦氏の本拠である衣笠城を数千騎をもって攻めたのです。三浦側は総帥の三浦義明らの討死と引替えに、一族は海上へ逃げたのでした。