21 阪東謀叛

阪東八カ国の侍奉行として上総介となった藤原忠清は、同族の伊北庄司常仲と抗争の末に家督を得た上総権介広常の在庁諸職を取り上げようとしていました。弱みにつけこまれた上総広常は反発し、子息の能常を上洛させて事情説明したのですが、平氏は納得せず、逆に広常を召喚してきたので、恨みにおもっていたのです。常仲と姻戚関係を結んでいた安房の親平氏勢力の長狭常伴は、対岸の三浦半島から衣笠城を脱出して江戸湾を渡海してきた三浦義澄討たれてしまい、続いて石橋山で敗れた頼朝も安房に上陸してきました。

下総国には上総広常と同族の千葉氏が国衙の下総権介職を世襲し、この千葉氏から相馬郷などを没収して勢力を扶植する藤原親通の子孫親正は、さらに千葉氏同族の勢力を統合して大武士団を形成していました。また、親正は平忠盛の女を妻とし、また従姉妹が平重盛との間に資盛をもうけて平氏との厳密な関係を結んでいたのです。

この藤原氏と連携していたのが常陸国の佐竹氏で、千葉氏の相馬御厨の領有権を奪い取っています。先は源義家の弟新羅三郎義光で、その子孫が那珂川以北の奥七郡を領して大豪族となったものです。那珂川以南には土着の常陸平氏国衙大掾職を世襲していました。さらに常陸平氏の勢力圏の信太庄には、源為義の三男義広が平治の乱に参戦せずに土着しています。


上野国には秀郷流藤姓足利氏源義家の孫にあたる源姓足利義重がいて、いづれ平氏に従属していました。ところが両者は所領をめぐる対立関係にあり、調停を持ち込まれた平氏はこれを放置したまま牽制し、彼等を巧みに北阪東の押さえとして利用してたのです。

そんな義重は京都で平宗盛から頼朝追討の密命を帯びて帰国すると、頼朝が石橋山の合戦で大敗したとを京都へ急飛脚で報せたのですが、北阪東から南阪東の情勢には疎かったのか、北條時政などが討ち取られるといった間違った報告をしていました。その一方で義重は高崎の寺尾城に構えて軍兵を糾合し、源氏の棟梁たらんとして独自の挙兵を図ったのです。しかし、弟の足利義康の子の矢田義清とその子義房は宇治で源頼政の元で平氏軍と戦い、義房は戦死していました。つまり足利氏は一族が分裂していたのです。


下野国はかつて源義朝が国守であったことから、藤姓足利氏もいたものの、これと覇を競って<一国の両虎>と呼ばれた秀郷流の小山氏、それに二荒山神社社家の宇都宮氏がいて、両者供に源氏と縁が深い関係にありました。

宇都宮氏は先祖の宗円が源頼義の奥州の安倍氏追討に際して、近江国石山寺から下向して凶徒調伏の祈祷した縁で下野に在地豪族として土着したもので、一族の宇都宮宗綱の娘は頼朝の乳母の一人になっていました。そしてこの乳母の寒河尼の嫁いだ先が小山氏家督の政光で、流人時代の頼朝に惜しみない助力をしていたといわれます。

石橋山の合戦に破れた頼朝が房総安房へ脱出した際、小山政光の嫡男朝政に書を送って参向を求めると、政光と朝政は平氏の軍役・大番役で在京中だったのですが、留守を守っていた寒河尼は末子の結城朝光を連れて参向したものでした。

安房へ上陸した頼朝軍は、その地の平氏方の目代を討った安西景益や下総の千葉介常胤に迎えられました。さらに上総介広常が二万の大軍を率いて合流したことによって、三浦半島の衣笠城を攻めた畠山・河越氏をはじめとする武蔵国の武士団も頼朝に服属し、石橋山の敗戦以来、一ヶ月半にして頼朝は鎌倉に入りました。

その間に、信濃源氏木曾義仲、 甲斐源氏武田信義が挙兵していました。


頼朝挙兵のとき武蔵七党武士団は、武蔵国衙の留守所総検校職河越重頼に従って衣笠城を攻めたと『源平盛衰記』は記しています。ところが、『吾妻鏡』治承四年(1180)八月二十日の条に、伊豆から相模へ進出した際の頼朝に従った武士の交名四十六人の中に、横山党武士団の一人義勝房成壽の名があります。系図によると、横山党三代目党首經兼の弟小野成任の次男中条成壽で、武蔵国多摩および相模国に多い横山党の中で熊谷市に勢力をひろめた一族です。

横山党の中で義勝房成壽だけが頼朝挙兵に参戦したのは、成壽の姉妹が宇都宮宗綱の妻になり、寒河尼の弟になる八田知家を生み、さらに成壽の子の中条家長は知家の養子になったという関係によるものと思われます。こうしたことから熊谷の横山党は多摩の一族とは異なる処遇と生き方をするようになるのです。