2006-09-01から1ヶ月間の記事一覧
保元乱の後、為朝は伊豆大島へ流されました。また三年後の平治の乱には頼朝が伊豆国へ流されています。為朝が伊豆諸島を占拠して叛乱を起こしたの対し、伊豆国衙の在庁官人狩野介茂光が院宣によって討伐したのは、およそ十年後のことでした。朝廷は為朝の叛…
保元乱から二年後、中継ぎの天皇後白河は約束通り守仁親王に譲位して二条天皇が即位しました。翌年の平治の乱の勃発は上皇となった後白河院の左京三条東殿を、源義朝の軍勢が包囲して放火、後白河とその姉上西門院を内裏に二条天皇と供に幽閉するという事に…
源義朝の嫡男三浦の義平が、武蔵国衙の在庁官人の首席であった留守所総検校職の秩父重隆を討てたのは何故でしょう。少なくとも武蔵国の国司は、武蔵国衙の在庁官人襲撃を黙って見過ごすはずが有りません。実は当時の武蔵守は義朝と同じく鳥羽上皇の院近臣藤…
そのころ武蔵国で勢力を有していたのは秩父平氏の秩父次郎大夫重隆でした。横山党を追補した秩父重綱の次男で、横山隆兼の娘を妻とした長男の秩父太郎大夫重弘をしのいで、秩父氏の家督と秩父氏の累代にわたる武蔵国衙の留守所総検校職に就いていたことから…