17 保元の乱

源義朝の嫡男三浦の義平が、武蔵国衙の在庁官人の首席であった留守所総検校職の秩父重隆を討てたのは何故でしょう。少なくとも武蔵国国司は、武蔵国衙の在庁官人襲撃を黙って見過ごすはずが有りません。

実は当時の武蔵守は義朝と同じく鳥羽上皇の院近臣藤原信頼でした。後に義朝の一族が壊滅的打撃を被る平治の乱の主謀者になるのが、この信頼です。隣国の下野の国司であった義朝と武蔵守藤原信頼の共同謀議の下に、義平の大蔵館襲撃が実行されたに違いないのです。

そして、横山党の船木田荘立荘も国司の加判が必要ですから、信頼の許可に依ったものでした。船木田荘の寄進先である皇嘉門院が開かれたのは、信頼の武蔵守就任と同年の事だからです。

義平に率いられて上洛した阪東武士団の名は『保元物語』に列挙されていますが、横山党から悪次・悪五の名があります。系図に照らして見ると、悪次は由木六郎隆家の嫡男廣家のことです。その子の五郎知保がもしかして悪五の異名かもしれません。横山党の由木は船木田荘内にあった長隆寺に最も近くにいた一族ですから、横山党宗家から船木田荘の下司を任されていたのではないかと考えられます。

その他、横山党から中条・成田・箱田・別府・奈良の諸氏が上洛しました。これらは皆、横山党三代目党首經兼の弟小野成任の子孫で、現在の熊谷市内に栄えていました。そこから秩父重隆の大蔵館は指呼の間ですから、義平の襲撃軍に参戦していたのかもしれません。

一方、愛甲荘の領主である為義に近いはずの愛甲氏からは、誰も上洛していないことから見ると、横山党は為義を見限って義朝側へ着いたことは明らかです。結局、横山党は愛甲荘の領主である為義よりも、義平に率いられて上洛し、義朝が仕える藤原忠通を通じて鳥羽院近臣を引き継いだ後白河天皇側の私的武力となったのです。


京都では近衛天皇が若くして没したため、子もなく、後継者も決まっていませんでした。第一候補は鳥羽上皇中宮待賢門院璋子の生んだ王家の嫡流祟徳の皇子重仁でしたが、近衛の即位したとき、祟徳は鳥羽の謀略によって排除されていましたから、重仁が後継者に選ばれるはずもなかったのです。

代って祟徳の弟の雅仁の子守仁を即位させる前提として、中継ぎにその父雅仁を後白河天皇として践祚でした。再度、排除された祟徳の憤怒は、翌年、鳥羽の死去によって激発したのです。

後白河の即位によって摂関家の大殿忠実・頼長もまた政権から完全に遠ざけられ、利害の合った祟徳と連合を組み、頼長に仕えた源為義の軍事力が加わるという構図になりました。両者に縁故のあった平清盛天皇に対する謀反人になることを避けて後白河に着いています。

偶然ともいえる後白河天皇の誕生は、上皇あっての院政期に不安定をまぬがれず、それを脅かす祟徳派の抹殺は必須でした。戦いは後白河から頼長の正邸東三条殿に義朝の隋兵が乱入、怨敵調伏を祈祷していたという証拠品を押収するとい徴発に始まりました。

この徴発によって祟徳側は為義をはじめとする武力を賀茂川の東、白河北殿へ結集したのですが、多勢に無勢、白河殿に放火されてたちまち蹴散らされてしまいます。『保元物語』は為義によって九州から呼び返された為朝の強弓による活躍を強調するばかりで、戦いの詳細は不明ですが、勝敗は一夜にして決しました。

一時は猛火の中を逃亡したものの、祟徳や為義は投降し、藤原頼長は流れ矢にあたって重傷を負いながら奈良まで逃れたものの、逃亡先で絶命したといいます。祟徳は讃岐国へ配流、為義は子の義朝によって斬られました。『保元物語』によると、義朝は十三歳の乙若はじめ元服前の幼い弟たち四人も処刑したとあります。

頼長の父実忠は合戦に際して中立を保ったことから罪人あつかいされなかったものの、洛北知足院での幽閉生活へ追いやられました。その実忠に義絶されて後白河側に廻った忠通は、天皇の命令によって氏長者を得たものの、本来は自立していた摂関家の任命権や武士団を結集した武力装置をも奪われてしまいました。保元の乱天皇家摂関家の戦いであったことが、この結果によく現われています。頼長の没官領は権威の無かった白河の経済基盤へ組み込まれました。

天皇の私兵として戦った義朝は以前からの下野守に右馬権頭を兼任、足利義康は内昇殿を許されています。平清盛は安芸守から播磨守へ出世し、弟の頼盛・教盛も内昇殿を許されました。この恩賞は清盛に比べて官職の劣る義朝が不満を抱いたといわれます。後に義朝は左馬権頭に、義康は検非違使になるのですが、彼等は依然として王権に侍(さぶ)ろう従者でしかありませんでした。

ただ一人、為朝のみ投降せず、合戦から一ヶ月以上経てから近江国坂田付近に病気療養のため潜んでいて逮捕されています。京都へ連行されたものの、減刑されて死刑を免れ、伊豆大島へ配流されました。鎮西で実戦戦闘を重ねてきた為朝は、このとき既に武士の自力救済の道を探っていたのでしょう。