18 平治の乱


保元乱から二年後、中継ぎの天皇後白河は約束通り守仁親王に譲位して二条天皇が即位しました。翌年の平治の乱の勃発は上皇となった後白河院の左京三条東殿を、源義朝の軍勢が包囲して放火、後白河とその姉上西門院を内裏に二条天皇と供に幽閉するという事にはじまりました。

保元乱後、権力を振るったのは、鳥羽院の没後、後白河を擁立した鳥羽院近臣の信西こと南家出身の俗名藤原通憲でした。しかし、院政を敷いた後白河や、院近臣の中でも傍流出身の信西にも執政として
権威がなく、結果として上皇側と天皇側の間に対立を引き起こされたのです。

信西の対立者は後白河の男色相手から引き立てられた鳥羽院近臣で武蔵守まで勤めた藤原信頼です。後白河院庁が開設されるとその厩別当に就き、正三位中納言・右衛門督の地位にありました。そして妹を摂関家の忠通の嫡男基実の嫁にして、摂関家の権威ばかりでなく、摂関家の私的武力であった源義朝の武力をも手中にすることでした。

しかも、この信頼は信西と対立する二条天皇側近で天皇外戚の大納言藤原経宗らと協力し、信西打倒に立ち上がったのが平治の乱の勃発でした。

保元の乱の合戦は鴨川以東の京外でしたが、今度は京の中心で軍事行動がおこされ、三条東殿を焼いた紅蓮の炎の下で多くの殺戮がくりかえされました。信頼や義朝が隠密裡に行動して仕留めようとした信西は、事前に信頼の危険性を上皇に訴えて相手にされず、脱出して近江国へ逃走、逃げ切れず土中に潜って見つかる前に自殺したのですが、その首は京の大路を渡されて晒されまた。

乱勃発から五日後、臨時徐目が行われ、軍事行動の立役者になった源義朝信西の息子が解任された播磨守に、その嫡男頼朝は上西門院の蔵人から右兵衛権佐に任じられています。そして、信西に組した公家たちは皆配流されました。これらの人事と処罰を仕切ったのは、後白河上皇を幽閉して二条天皇を内裏に据えた信頼でした。信頼らが後白河上皇の寵臣信西を打倒するということは、その院政を否定して二条の天皇親政を目的としたものだったのです。

ところが、院と天皇の側近たちが信西打倒という共通目的で強力しあったものの、当面の目的を達してみれば今度は二条天皇の元で政治主導権をどちらが、また誰が執るかで、両陣営は対立してしまい、再び武力対決になりました。

信頼には源義朝の軍勢がありますが、二条側近の経宗らには私兵は有りません。そこで起用されたのが平清盛です。清盛の娘は信頼の嫡男信親の妻という姻戚関係にあったのですから、本来なら信頼の手勢として動いてもよかったはずなのです。それを信頼は清盛を差し置いて義朝を使い、しかも戦功をあげさせたのですから、清盛にしてみれば裏切られたも同然でした。

二条側近たちは天皇白河上皇平氏の京における根拠地の六波羅へ、夜陰に紛れて脱出させてしまいました。義朝の手勢が内裏を警護していたにもかかわらず、易々と脱出させてしまったということは、それだけ義朝の動員した軍勢が手薄だったことを物語っていました。かくして天皇を奪い取った清盛は官軍となり、信頼・義朝たちは賊軍に転落してしまったのです。

信頼も鎧で武装して義朝とともに六波羅へ出撃したものの、元来が急な隠密の挙兵であったことから義朝の軍勢は少なく、伊勢・伊賀から招集された平氏の軍勢に蹴散らされてしまいました。

敗れた信頼は後白河に庇護を求めたものの許されるはずもなく、公家でありながら武士並に六条河原で斬首されています。武士として自力救済の道を求めて東国へ脱出した義朝も、尾張国まで裸足の徒歩という惨めな姿で逃げ、謀殺されました。義朝に従った阪東武士はほとんどいません。叔父の義隆、長男義平、次男朝長などが討死あるいは逃走途中で自害しました。院や天皇あるいは摂関家の走狗としてあった阪東の源氏の壊滅です。二条側近たちもまた配流されました。

参戦して生き残ったのは信濃源氏平賀義信、捕らえられて伊豆へ流罪になった三男頼朝ぐらいでした。後に頼朝の挙兵に駆けつけた義信は、戦いの後武蔵守に補されています。