19 伊豆箱根異変

保元乱の後、為朝は伊豆大島へ流されました。また三年後の平治の乱には頼朝が伊豆国へ流されています。為朝が伊豆諸島を占拠して叛乱を起こしたの対し、伊豆国衙の在庁官人狩野介茂光が院宣によって討伐したのは、およそ十年後のことでした。朝廷は為朝の叛乱を平将門平忠常以来の阪東の謀反として驚愕したといわれますが、そのとき伊豆国へ流されて二十三・四歳になっていた頼朝は何を想ったのでしょう。頼朝が平氏打倒に伊豆で挙兵するのは、さらに十年後のことです。

保元・平治の乱の間か、その直後、横山党五代目党首横山時重は、伊豆の狩野介茂光の娘に女子を生ませています。後に曾我兄弟の母になる女性です。武蔵国多摩郡あるいは相模国の横山党が離れた伊豆の在庁官人狩野茂光と、どのようにして関わりが生じたのか、興味深いものがあります。

狩野氏は伊豆の天城山から北麓へ流れる狩野川流域に狩野荘と狩野牧を領した一族です。藤原鎌足の十代孫、南家乙麻呂の子孫にあたる藤原為憲の子孫と伝えます。為憲は将門の乱に戦功により伊豆守に任じられ、子の維職は伊豆 横領使に補せられたが任期切れにも帰京せず、伊豆中央部に狩野牧を含む狩野荘に土着しました。

狩野の地名は『記・紀』の時代、古代大和朝廷に献納した大船<枯野>から発したと伝えられ、古くから造船に長じた地域でした。天城湯ヶ島町松ヶ瀬の軽野神社は狩野氏の氏神です。そんな土地に勢力を持った狩野氏は水軍でもあったのです。伊豆大島の為朝を討伐したとき、狩野茂光の水軍は総勢五百余人、兵船二十余艘であったといいます。

伊豆の狩野荘が造船に長じた地域であったように、武蔵多摩の横山党の船木田荘はその荘名が示すように船木を産する土地でした。船木田荘に接して日野市高幡に金剛寺、通称高幡不動があるのですが、南北朝時代に再建されたとき、船木田荘から材木を伐り出したという伝承があります。狩野氏と横山党の関係はいわば同業者であったといえます。

両者に人的な関係もありました。横山時重の妹は鎌倉党の梶原景時の生母です。そして景時の室を狩野尼といい、伊豆の狩野氏との関わりを示しています。また、梶原氏は狩野氏と同様、鎌倉の水軍でもありました。西海へ逃げた平氏攻めのとき、梶原景時が逆走できる逆櫓論争を義経との間に戦わせたのも、水軍の経験なくして出来ないことでした。


ところで、狩野茂光が伊豆大島の為朝を討伐してから二年後、摂津源氏頼政伊豆国知行国主になり、嫡男仲綱が伊豆守に就きました。平治の乱によって河内源氏が壊滅してから、合戦には義朝に敵対した頼政美濃源氏などを組織して源氏の中心的な存在になっていたのです。

この伊豆守仲綱の目代仲成という男が現地赴任して、在庁官人の長たる狩野茂光の孫娘つまり横山時重の娘に生ませたのが、曾我兄弟の兄姉にあたる二人の子供でした。しかし、仲成は直ぐに帰京してしまったらしく、母子はしばらく茂光の元で暮らし、間もなく母は一族の河津三郎と再婚して生まれたのが曾我兄弟でした。兄弟の父河津三郎が工藤祐経に殺されたのは兄十郎が五歳、弟五郎が三歳のときで、さらに母はもう一人の子を身ごもっていました。河津三郎が殺されたのは、伊豆奥野の狩倉に伊豆・駿河・相模・武蔵四カ国の武士五百余騎が集まって、七日間の狩が催されたその帰り道のことでした。

伊豆奥野で催された狩の場は四カ国武士団の交流の場であもあったらしいですから、狩野茂光と横山時重の出合いの場でもあったはずです。因みに、『曾我物語』は流人であった頼朝ですら、この狩の場に招かれたとしています。


流人頼朝が監視人伊東祐親の三女に生ませた男子を、平氏への聞こえを恐れた祐親によって殺され、夜討ちまでかけられそうになって同じ伊豆の北条時政のもとへ逃げ込んだのは、河津三郎が殺される前年のこととされます。ここで頼朝は時政の長女政子に手を出し、あわてた時政は政子を目代の山本判官兼隆に嫁がせる手はずだったのを、頼朝と政子は手に手をとって伊豆山走湯権現へ逃げたという<お噺>になっています。しかし、山本兼隆が目代に就くのは、数年後に伊豆国知行国源頼政以仁王を奉じて討死した後、中納言平時忠知行国主になってからのことです。

ともあれ、頼朝は神仏に対して信心深い面を持ち、伊豆山走湯権現別当密権院の阿闍梨覚淵に師事していたことは確かなことです。挙兵のときには政子を走湯権現の尼僧に預けたくらいでした。また、覚淵は頼朝挙兵とき山本兼隆の首を取った加藤次景廉の兄弟といわれます。景廉は平氏に追われて伊勢国から伊豆へ逃げ、狩野茂光の娘婿になった加藤五景員の子で、茂光の為朝討伐に際して率いた五百騎のなかに加藤太・加藤次がいます。

挙兵後、石橋山の惨敗で三日間箱根山中を逃げ回って疲労困憊して進退極まった加藤五景員は、息子の光員・景廉と分かれて走湯権現に入って出家するのも、そこに覚淵がいたからでしょう。


伊豆山走湯権現と並んで相模の箱根権現は二所権現として崇敬されます。両社とも明治維新までは神仏混交で、熊野三山と同様に僧侶の山岳修行の場、いわゆる修験山伏の社寺だったのです。戦国時代になると修験山伏から忍者隠密を排出しますが、後北條氏の<風魔>と呼ばれた忍者組織は箱根山に巣食っていました。

ところが、箱根権現は頼朝との関係に疎遠なところがありました。伊豆国の流人頼朝としては相模国へ出ることは出来なかったことから、流人時代に箱根権現へ詣でることはなかったとしても、不信なことです。頼朝が伊豆の目代山本兼隆を討ち取った後、追手から逃れて箱根山へ登ったところ、別当行実は弟の智蔵房良暹が山本兼隆の祈祷師だから頼朝の居場所を追手に教えるもかもしれないとして、親切ごかしに頼朝一行を追っ払ってしまったのです。

箱根権現の別当行実は、父の良尋が別当だった頃、都の六条判官源為義や子の左馬頭義朝と親交があり、自身が別当に就くと駿河・伊豆の源氏の家人らに対する指示権を与えられた関係にあったくらいですから、頼朝に対して疎遠なのは不思議なことです。

考えてみると、それは例えば平氏への聞こえを恐れたという単純なことではないと思われます。別当行実が為義から指示権を与えられていたのであれば、保元の乱の敗者である父為義を斬首した義朝の子である頼朝を、快く思わなかったのではないか。

かといって、それ以降、別当行実は源氏に批判的だったりしたわけでなく、為義から離反した義朝の代わりに阪東へ下向させた次男義賢が、義朝の長男義平に武蔵国比企の大蔵館を襲撃されて殺されてから、その子は信濃国へ落とされて木曽義仲として育てられました。

後に、平氏打倒の頼朝の競争相手になる木曽義仲成の祐筆だった覚明が、前歴を隠して不敵にも頼朝の眼前に現われのは箱根権現を舞台にしてのことでした。別当行実が頼朝に疎遠だった理由がこんなところにあったのではないかと思われます。


一方、伊豆山走湯権現の専光坊良暹は後に鎌倉の鶴岡八幡宮の初代別当に呼ばれています。『新撰陸奥風土記』によると、本吉郡に祀られた梶原堂の記事に、専光坊景実とあり、しかも梶原景時の兄とあります。これが事実とすれば、頼朝が山本兼隆討ち取った後、鎌倉党の大庭景親の一党に石橋山の戦いに敗れて椙山の山中に隠れたとき、初めて遭遇したかに伝える梶原景時とは、それ以前から伊豆山で顔見知り以上の関係にあったのではないかと思われます。

そして、武家の棟梁に成っていく頼朝の<悪>を、侍所の次官である諸司として一身に引き受けた景時の、その手足となった身分の低い隠密のような<雑色>の中には、走湯権現の修験山伏たちも混ざっていたのではないか、といえます。