16 大蔵館急襲

そのころ武蔵国で勢力を有していたのは秩父平氏秩父次郎大夫重隆でした。横山党を追補した秩父重綱の次男で、横山隆兼の娘を妻とした長男の秩父太郎大夫重弘をしのいで、秩父氏の家督秩父氏の累代にわたる武蔵国衙の留守所総検校職に就いていたことから、阪東各地に散らばる秩父平氏流の各氏や武蔵国の各武士団に対して、事有るときは軍事催促権を持っていたのです。

こうした秩父重隆に対して、甥で秩父重弘の嫡男畠山庄司重能は不満をくすぶらせていました。秩父氏の内部で叔父・甥の間で分裂・対立していたのです。

この畠山重能の妻は相模国三浦義明の娘で、源義朝の長男義平の生母の姉妹にあたっていました。また、義平の妻は上野国の足利義国の長男新田義重の娘で、弟足利義康源義朝の妻の妹を妻として義兄弟の関係にありました。これによって義康も上洛し、鳥羽院の北面や蔵人を務め、たちまち検非違使に就いたことでした。

足利義国は源義家が二度の陸奥合戦の間に、秀郷流藤原氏一族の女に生ませた子であったことから、藤姓足利氏に養われていました。そこで藤姓足利氏の勢力圏内で新たに開拓して勝手に立荘し、藤姓足利氏との間で小競り合いが続いていたのです。しかも藤姓足利氏畠山重能利根川を挟んで対立していました。また重能の姉妹は、義朝が相馬御厨を奪って服属させた千葉常胤に嫁いでいました。


こうして阪東武士団が同族同士各地で分裂・対立する時期、急速に勢力を広げていた横山党の内情はどうだったのでしょう。

仁平四年(1154)九月というから、源義朝従五位下下野守に叙任され、弟の義賢が上野国多胡郡に下向した翌年のことです。横山党小野氏は船木田荘内の長隆寺西谷において如法経供養を行っています。如法経供養とは法華経を書写して名山あるいは墓辺等に埋納する行事です。弁智という者が勧進僧になって、数人の僧と地元の小野氏・清原氏など有力者たちでした。

当時の如法経供養はそれによって仏縁を固めるだけでなく、一族結束の役割を果たしました。横山党も勢力拡大にともなって分裂の危機にあったと思われます。というのも、供養の行われた長隆寺西谷がある船木田荘内が問題だらです。

船木田荘は横山党の横山荘や愛甲荘とは別の荘園で、摂関家藤原忠通の娘で崇徳上皇中宮聖子の皇嘉門院へ寄進されたものです。

崇徳天皇の譲位後、重仁親王を生んだ兵衛佐と供に院御所に移り、子供の生まれなかった聖子は幼い近衛天皇の養母として内裏に残ったことから崇徳との関係は疎遠になっていました。久安六年(1150)聖子は国母として女院宣下を受けて皇嘉門院を開きました。横山党の船木田荘はこの皇嘉門院へ寄進されたのです。船木田荘を含めた皇嘉門院領は後に聖子の甥の九条良通に譲られています。船木田荘は摂関家の大殿藤原忠実に義絶された忠通流へ寄進されたことになり、鳥羽院近臣の義朝の側にいました。

つまり、横山党は船木田荘を通した義朝と愛甲荘領主の為義の両方へ関わっていたのです。一つ間違えれば横山党も分裂の危機にあったこの時期、船木田荘内で如法経供養が行われました。


そんな折から為義の次男義賢が北阪東の上野国多胡郡に下向、北武蔵の秩父重隆を養親として比企郡の大蔵館に通っていました。南阪東の三浦氏が源氏の義朝を担いだように、北阪東の秩父重隆は同じ源氏の義賢を押し立て、互いに阪東武士団の糾合を図ったのです。

その頃、京の為義は再び検非違使を解官されています。息子の鎮西八郎こと為朝が九州の大宰府支配下での乱行を放置したというのが解官の理由でした。為朝の乱行も為義が仕えた摂関家への奉仕だったのです。さらに半年後には、阪東へ下向した次男義賢の代わりに京の後継者と見込こまれて順調に出世していたのに、春日社の訴えにより左衛門尉を解官されてしまいました。

為義の権威喪失に加え、長く病気がちだった近衛天皇没が十七歳で没すると、その前後から為義の仕える摂関家の頼長による呪詛の噂が駆け巡り、鳥羽院近臣や忠通と忠実・頼長の間の対立は明らかになっていました。

三浦半島の義朝の長男義平が率いる一団が比企郡の大蔵館を急襲したのは、その翌月のことでした。従うは三浦・波多野氏はもとより、畠山重能の姿もありました。突如襲われた大蔵館の義賢、それに養い親の秩父重隆まで殺されてしまいました。

それだけでなく、京の為義が組織しようとした阪東武士団もまた、公然と父に反抗した義朝側に奪われてしまいました。それは翌年、京において上皇天皇摂関家が武士の武力を使って衝突した<保元の乱>の前哨戦であり、摂関家や為義の必敗が約束された戦いでもあったのです。