15 京都の対立

京の源為義白河院近臣の藤原忠清の娘を妻にして、白河院の孫で幼い鳥羽天皇の身辺警護の役に就いていたのですが、相変わらず昇進もできずに低迷していました。そんな為義に手を差しのべたのは、白河院と対立して関白の地位を追われた摂関家の大殿忠実でした。

白河院が没した直後、かつて平正盛に討たれて死んだはずの為義の父義親を名乗る者が現われ、閉門・謹慎中の宇治の忠実の邸宅に鳥羽天皇の命で養われていました。結局、義親を名乗る者は偽者と分かって暗殺されたらしいのですが、為義はそれが縁で忠実に従臣するようになったのです。

その頃、摂関家は大殿忠実と嫡男で関白の忠通の間で分裂していました。忠通の摂関職は養子に迎えた次男で左大臣の頼長に譲渡する約束だったのですが、後から忠通に実子の基実が生まれたことから摂関職の譲渡破約したのが、分裂の大きな原因でした。

忠実は忠通を義絶し、藤原氏氏長者とそれに付随した荘園や氏寺の興福寺管理権を剥奪して頼長に与えてしまいました。そのとき忠実の命令で、忠通の正邸東三条殿を接収し、摂関家累代の宝物を奪取したのは忠実に臣従した源為義でした。また、興福寺の悪僧を十五人を粛清して陸奥へ配流したとき、それを連行したのも為義の役目でした。

為義はさらに忠実の後継者になった頼長に名簿を呈して臣従し、鳥羽の皇太子体仁親王(近衛天皇)の警護隊長である帯刀先生(たてわきせんじょう)をしくじって解官されていた次男の義賢をも頼長の腹心となり、能登荘園の預所に補任されました。若い義賢は頼長の男色の相手を要求され、心身供に服従させられました。


その頃、義賢の兄で為義の嫡男義朝は、京で任官することもなく阪東へ下向しました。義朝の生母が摂関家大殿忠実と対立した白河院近臣の娘であったため、忠実・頼長に嫌われたようですが、その実、摂関家と深く関わって、阪東の在地武士団の糾合を図ったのです。

阪東に下った義朝は為義の持っていた上総国畔蒜(あひる)庄を根拠にして、両総一帯を支配する平忠常の子孫上総介常澄に養い育てられて<上総曹司>と称しました。康治二年(1143)、上総介常澄と結んだ義朝は、上総氏と領有争いのあった上総氏一族の千葉常重・常胤父子の所領である相馬御厨を奪い取って千葉氏を服属させ、自ら御厨の下司職に就いたのです。

義朝は一方で、先祖の頼義以来の相模国鎌倉亀谷に館を構え、三浦半島の三浦介義明の娘との間に長男義平をもうけ、さらに相模国の波多野氏とも結んで波多野遠義の娘に次男朝長を生ませています。波多野遠義が再婚した相手は相模目代殺しの横山隆兼の娘ですが、朝長の生母であるかどうかは分かりません。

そして義朝は相馬御厨を奪った翌年、相模国衙の在庁官人でもあった三浦・中村氏を率いて、隣接する鎌倉党の大庭御厨を奪取して国衙領の拡大に出たことです。裁判の結果、御厨は大庭氏の手に帰したのですが、鎌倉党は武力的に源氏の傘下に下ったのでした。

義朝の阪東武士団の糾合は父為義の指示にもとづくものであり、為義が仕える摂関家に奉仕する目的であったことは明らかでした。上総氏の菅生荘や波多野の波多野荘は摂関家領に他ならなかったからです。ところが、義朝の阪東における活動が京都に伝えられると、思わぬ境遇へと展開しました。

まず、上洛した義朝は尾張国熱田神社宮司藤原季範の女を妻として嫡男頼朝が生まれました。その五年後の仁平三年(1153)八月、義朝はいきなり抜擢されて従五位下の下野守に叙任されたのです。父為義は頼朝の生れる前年、摂関家に奉仕して衛門府に復帰、やっと左衛門大尉についたばかりでした。義朝の受領は為義の父義親が對馬守就任以来、実に五十年ぶりの出来事だったのです。

何が義朝の破格な出世をもたらしたのでしょう。義朝が相模の国衙領拡大のために大庭御厨を襲った当時の相模守藤原親弘は、近衛天皇の生母美福門院得子の乳母夫藤原親忠の息子でした。また、義朝の妻の姉妹は、崇徳や後白河天皇を生んだ鳥羽上皇中宮待賢門院璋子の女房として仕えていました。義朝はこうした関係を通じてを通じて鳥羽上皇の近臣となっていったのです。

そこで鳥羽上皇摂関家の関係が良好に続けば、為義・義朝父子の関係も無事だったでしょう。しかし、藤原氏氏長者となった<悪左府>頼長の腹心武官によって、鳥羽院第一の寵臣で美福門院の従兄弟の藤原家成邸が襲撃されたため、院近臣と摂関家の対立は極点に達し、摂関家に仕える為義と院近臣となった義朝もまた中央の政治的対立の渦に巻き込まれていったのです。


為義は義朝が下野守に任じられた直後、南阪東に地盤を固めた義朝が自己の統制下から離脱したことを悟り、代って次男義賢を北阪東の上野国多胡郡に下向させ、再び摂関家に仕える在地武士団の組織活動を開始させました。後に、義賢と養子縁組していた三男義憲も常陸国信太庄に拠点を構えています。

京都における天皇家摂関家の政治的対立は、阪東において源氏の分裂と対立をまねき、在地武士団をもこの対立に巻き込まずにはおきません。