14 阪東平氏

横山党は相模目代殺害によって追討されたのですが、愛甲荘司を得たばかりでなく、直接追討した相手方とも姻戚関係を結んでいます。

追討したのは秩父重綱・三浦為継・鎌倉景政の三人ですが、いずれも秩父平氏流を称する阪東八平氏です。三浦為継と鎌倉景政奥州合戦に参戦した履歴を持っていて、右眼を射られた景政の矢を為継が土足で踏みつけて抜こうとして、景政が怒った話は有名です。

秩父重綱の嫡子太郎大夫重弘は横山隆兼の娘を妻としました。横山党追討を命じられた重綱はある程度年老いていたでしょうから、その嫡男の重弘は追討以前から隆兼の娘を妻にしていたもと考えられます。追討もその縁によって説得が期待されたのでしょう。それに重綱は武蔵国留守所総検校職を帯して、武蔵国衙の在庁官人でもありました。横山党の本拠は武蔵国にあったことから、留守所の秩父重綱も追補にあたったのでしょう。

秩父重弘の子に畠山重能と小山田有重がいます。重能の生母は誰か分かりませんが、有重の生母は横山隆兼の娘と見なせます。というのも、有重の領した小山田荘は多摩の横山の一角に位置するからです。その城跡は有重が建立したと伝える大泉寺周辺とされています。

小山田有重の子は六人いたと伝えられます。嫡男は早世、次郎重義(または重忠)は小山田城から東へ一粁半ほど離れた小野路に支城を構え、小野篁を祭神とする小野神社も祭っていました。いうまでもなく小野神社は横山党小野氏の氏神社です。城跡の隅にある湧き水に小野小町井戸の伝承すらあります。また小野路の近くにある千手院の梵鐘は第二次大戦中に接収されたのですが、『新編武蔵風土記稿』に鐘銘が載せられていて、小山田次郎重義が観音の霊感を得て堂舎を再建したとあります。

因みに、能の観阿弥大夫の自作自演の『横山』は小野路を舞台とした、鎌倉御家人横山十郎治直の不遇の生活を題材にした謡曲ですが、ここでも横山党と秩父平氏が混同されています。


小山田有重三男の稲毛三郎重成は都築郡十六郷の領主として、現在の向丘の丘陵に桝形城を構えていました。多摩川沿いの横山に続く向いの丘です。

さらに末子の六郎行幸は母が秩父重弘と結婚したとき持参した甲斐国都留郡田原の横山党私領を相伝して移住、甲斐の小山田氏の祖となって子孫は戦国時代まで続きました。甲斐の都留郡と横山党の本拠のある八王子とは離れ過ぎのようですが、相模川(桂川)を遡ったところが都留郡田原で、その途中の上野原から大月にかけて隆兼の子が古郡氏として進出していました。


鎌倉権五郎景政も秩父氏と先祖を同じくする阪東八平氏の一流です。景政は横山党追補から四年後、浮浪人を集めて開墾した鎌倉郡の私領を、伊勢大神宮領として寄進して大庭御厨としました。これが後に同じ鎌倉亀谷に阪東の根拠地を持った源頼義以来の清和源氏と紛争の種となります。

景政は奥州合戦でしめした剛胆さが子孫に伝承され、神として崇められて権五郎社に祀られました。それが非業の死をとげた人の霊を祀ることで悪災を祓うという御霊信仰と習合して、今有る御霊神社になっています。あるいは権五郎の五郎が音韻変化して御霊に変ったとか、子孫にあたる大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という五家の祖霊、五霊が御霊になったともいわれます。

この景政の曾孫が梶原景時ですが、その生母は横山隆兼の娘とされます。景政の孫の景長に隆兼の娘が嫁いで景時が生まれたのです。横山党の根拠地とされる八王子市内に、梶原景時の勧請したと伝える八幡神社があります。景時は横山党と縁があり、次男の景高の妻は、武蔵国埼玉郡成田に進出して横山隆兼の従兄弟にあたる成任の嫡子成田成綱の娘です。