13 相模国進出

源為義は六条判官と呼ばれるように検非違使として京都に在住していたのに、相模国の愛甲荘を熊野山領として寄進しています。愛甲荘に接した毛利荘は為義弟の陸奥六郎義隆が領していました。為義・義隆兄弟は父義家の奥州合戦が終ってから十年後に生まれていますから、おそらく両荘は祖父の頼義が奥州合戦の恩賞に得たものを伝領したと思われます。

それを熊野山へ寄進したのは、為義が熊野別当の娘立田御前に生ませた子の一人は、末子の新宮十郎義盛改め八条院蔵人として、高倉宮以仁王平氏打倒の令旨を阪東の各源氏へ廻文した源行家ですから、熊野山との関係が深かったことによります。

為義は愛甲荘の現地代官として内記平大夫を派遣していました。『吾妻鏡』建久元年(1190)の記事に、上洛途上の頼朝は美濃国青墓の駅で長者大炊の息女等を召し出して面会しています。この大炊の姉が為義の妾として乙若以下四人の子女をもうけ、その父は内記大夫行遠とありますから、愛甲荘の代官と同一人物と見なせます。大炊の娘の延寿には為義の嫡男義朝が通って夜叉御前をもうけました。

内記行遠はまた一方で国司相模守の目代(もくだい)でもありました。目代とは国司四等官の目(さかん)の代りといわれ、国司が領国支配の実務に精通した者を私的に雇っていた在庁官人です。青墓駅の長者に縁故のある行遠も、そうした能力の持主だったのでしょう。

相模守藤原宗佐の元は摂関家嫡流が伝領してきた京都堀川の東にあった堀川院の蔵人でしたが、相模守に任じられて七年後の天永三年(1112)の年末、任国相模で没しました。横山党が相模目代の内記平大夫を殺害したのは、この直後のことでした。

武蔵国多摩の横山の横山党が何故、相模国衙を襲って目代殺害にまで至ったのでしょう。このとき横山党は四代目党首横山隆兼の時代で、多摩の根拠地とおぼしき片倉城に近い相模川に沿って相模国へ進出しました。片倉城の南方、相模川東岸にのびる相原から相模原市一帯へ隆兼の子息等を配置したのです。


それ以前、既に隆兼の妹か子女が嫁いだ先もあります。当時の相模国府が国分寺跡とされる海老名市か伊勢原市であるかはともかく、国衙跡と伝承される三宮比々多神社のある伊勢原に糟屋氏があり、『小野氏系図』によると隆兼の弟盛経が糟谷五郎を名乗っています。

糟屋氏は藤原北家冬嗣の三男良方が相模国守護として下向、土着して五世孫元方が相模国大住郡粕屋庄において育ち、粕屋太郎を称して初めて武家になったと伝えます。『糟屋氏系図』によると元方の曾孫義忠が横山隆景女と婚して四宮光久を生んだいいます。
横山隆景はおそらく横山隆兼の間違いであろうと考えられます。

伊勢原の糟屋には糟屋氏の鎮守と伝える上糟屋神社があり、下糟屋の高部屋神社は糟屋城跡と伝えています。ここから北へ二粁ほど先に愛甲荘がありました。

また、横山隆兼は糟屋の西側にいた波多野遠義にも娘を出して、生まれた子は足柄峠下の山北を領する河村秀高となっています。波多野氏は藤原秀郷の子孫で、摂関家領の波多野荘の現地支配のために下向した一族でした。遠義の曾祖父は佐伯経範といい、秀郷から五代孫の公光に婿入りして波多野氏を名乗りました。


横山党が相模目代を襲った理由は、おそらく各地で起きたのと同様な反国衙闘争だったと思われます。相模守藤原宗佐は二期目の国司任期終了間近になって、国家へ納める分はもとより、自分の取り分も確保すべく厳しい徴税を課したのに対し、横山氏との協議は合意にいたらず、相模守はその心労で卒し、目代の内記大夫行遠が徴収を強行しようとして逆に殺されたのです。

横山党のそれは<凶党蜂起>、国家に仇なす八虐の罪にあたり、たちまち朝廷から追補官符が発せられました。『小野氏系図』によると、十七ケ条の衾宣旨により、東海道十五ケ国の武士に三年間追討され、追補使も十七度におよんだと、いささか大袈裟です。といっても横山党の相模目代殺害や追補は事実で、摂政藤原忠実の日記『殿暦』や村上源氏師時の日記『長秋記』にも記録されています。とはいえ、三年間も追討されたいうのはやはり嘘八百で、相模守藤原宗佐が没してから三ヶ月後、翌年の四月初めですが、目代殺害の下手人数名が京都で検非違使に逮捕されたといいます。

『小野氏系図』には、横山隆兼以下は京都に参じて六条判官源為義に咎無きことを陳訴して許され、為義から白弓袋と愛甲荘を給わったとあります。このとき為義は十八歳にすぎず、まだ左衛門少尉で、検非違使に任じられるのは十年ほど先のことです。

為義は何故、横山隆兼を咎めなかったのでしょう。為義が若かったからというより、自身は在京の身で、阪東武士を源氏の武士として組織した義家の遺産を手放したくなかったからです。同じ源氏でさえ、各地で分立しようとしていた時期でした。そして、白河法皇も阪東の在地武士を結集しようとして、院近臣を阪東へ送り込んだのです。


この年の十一月、三宮輔仁親王の護持僧で、左大臣村上源氏俊房の子、醍醐座主勝覚の弟仁寛が鳥羽天皇暗殺の陰謀を企てたとして逮捕され、伊豆国大仁へ配流されました。俊房とその兄弟は連座して出仕を止められ、三宮輔仁は閉門蟄居に追い込まれて王位への道を完全に絶たれてしまいました。

仁寛を逮捕したのは検非違使藤原盛重ですが、横山党の目代殺しの下手人を逮捕したのもこの男でした。盛重は検非違使だから職権行使は当然としても、千寿丸と呼ばれて白河法皇の寵童から元服して近習をつとめ、検非違使尉を経て長年にわたって相模守を務めるという典型的な院近臣だったのです。