12 源氏没落

奥州合戦の後、源義家は官職もないまま十年間放置されました。白河上皇は義家の代わりに弟の義綱を陸奥守に起用したのです。一般に、奥州合戦の戦功によって義家の勢力が拡大することを白河上皇が怖れたからだと言われます。しかし、源義家平将門や忠常のように朝廷に対して謀反を起こそうとしたわけでは有りませんから、武家の棟梁と崇められたとしても怖れる必要はなかったはずです。白河上皇が義家を怖れたとすれば、それが朝廷内の反白河上皇勢力と結びついたときです。

源義家が奥州清原氏の内紛に介入する前年、京都では白河天皇の弟で皇太子だった実仁親王が疱瘡にかかって十五歳で没しました。父の後三条上皇は生前、皇太子実仁にもしもの事があったら次の皇太子に三宮の輔仁親王を望んで遺言していました。天下の世情もまた輔仁の立太子を望んだといわれます。

ところが、白河は翌年、輔仁を差し置いて八歳の自分の子供を立太子させ、即日譲位して堀河天皇としてしまったのです。白河王統の確立と院政の始まりです。

輔仁を担いだのは、藤原道長の長男で子供の生まれていない頼通の養子になった村上源氏の師房の一族でした。師房は実仁の皇太弟傳を務め、その子の俊房の妻は輔仁の生母と姉妹であり、異母弟の師忠は娘を輔仁に嫁がせて有仁王が生まれるという深い関係にありました。

そして、左大臣俊房に家礼として仕えていたのが武家源氏の義家です。しかも義家は娘を輔仁親王に奉げ、二人の間に生まれた子は後に近江の円城寺に入り、法眼行恵という僧呂になりました。後年、義家子孫の頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を再建したとき、初代別当に円城寺から呼び寄せた円暁はこの行恵の子でした。

白河王統を脅かす輔仁・摂関家に連なる村上源氏と、その摂関政治を制して院政を始めた白河上皇の隠微な勢力争いの中で、義家の奥州合戦は戦われたのですから、それは公戦と認められなかったのも必然の結果でした。

奥州合戦から十年後に義家が院昇殿を許されたとき、その前年、白河上皇は私領を寄進してきた伊勢平氏の正盛を院の武力として採用していたのです。
輔仁親王村上源氏を裏切って上皇側へ寝返った義家ですが、その晩年は惨憺たるもので、武家源氏を分裂と没落へ導く一歩になりました。


義家の嫡男で對馬守義親は九州大宰府管内で国衙筥崎宮領荘園との紛争に武力介入しことから、白河上皇は追討使を派遣しようとしたところ、義家の懇願によって中止され、義家に義親召喚が命じられました。ところが派遣された義家の郎党は同行した太政官の召喚使を殺害してしまい、義親は隠岐へ配流されたのです。

また、常陸国で義家三男の義国と義家弟の義光が合戦して、義家は義国召喚を命じられたものの、果たせないまま六十八歳で没しました。翌年、堀河天皇が没し、生まれて直ぐに皇太子になった堀河の皇子の鳥羽が、わずか五歳で践祚しています。三宮輔仁親王立太子の可能性は否定されてしまったのです。

隠岐に配流された義親は今度は出雲国目代を殺したため、白河上皇から追討を命じられた伊勢平氏の正盛が義親を討って凱旋し、一躍名を挙げて但馬守に補されました。義家に代って白河上皇に取り立てられたはずの弟義綱は最早無用となっていたのです。

義親配流後、義家の後を継いでいた四男の検非違使義忠が何者かに斬殺されました。義綱の三男義明が容疑者として検非違使の襲撃をうけて殺害されたため、義綱は息子五人を率いて京から東国へ逃れようとしました。追補された義綱は近江の甲賀で出家して投降、息子たちは間もなく自害しました。義綱は佐渡へ流され、後に暗殺されました。義忠を殺したのは甥の嫡流をねたんだ常陸の叔父義光に命じられた暗殺者だったといいます。

白河上皇の命によって義綱一族を追補したのは、義親の嫡男十四歳の為義です。為義は義綱追補の功によって左衛門少尉に任じられ、義家の家督も継いだのです。


横山党が相模国目代で為義の愛甲荘代官であった内記平大夫を殺害したのは、それから数年後のことです。その同じ頃、京では村上源氏俊房の弟で、しかも三宮輔仁親王の御持僧でもあった醍醐寺の仁寛阿闍梨鳥羽天皇暗殺の陰謀を企てたとして逮捕されました。