11 奥州合戦

阪東における清和源氏とは、言わば<遅れて来た源氏>だったのです。源頼信が鎌倉に源氏の拠点を持ったとき、阪東は既に阪東八平氏藤原秀郷の子孫、それに武蔵七党などの在地領主によって占められていました。そこへ清和源氏が割り込むには相当の無理を強いる必要があったのです。それが頼義・義家父子の仕掛けた奥州戦だったと言えます。

源頼義陸奥守として補任されたのは永承六年(1051)、二年後に鎮守府将軍を兼任しています。その頃の陸奥国はかつての俘囚長が自ら<酋長>と称して安倍氏を名乗り、鎮守府の置かれた胆沢郡以北の奥六郡を支配していました。俘囚長が安倍氏を称したのも、畿内氏族の安倍氏から父系を得たものです。

頼義が陸奥国へ赴任する二年前、奥六郡総郡司職の安倍頼良は衣川関を越えて南側まで勢力を拡大し、貢租を拒み、徭役もつとめない状況にあったといいます。それに対し陸奥藤原登任は数千の兵をもって頼良を攻めたのですが、大敗してしまったのです。

そこで頼良追討に起用されたのが新任の陸奥源頼義で、公権をもって反逆者安倍頼良を追討すべく陸奥国へ就いたのでした。ところがその翌年は、釈迦入滅二千年を経て仏教が衰えると予言された末法の年にあたり、朝廷は藤原道長の女上東門院の病気平癒祈願を理由として大赦令を発令したのです。そのとき頼良も大赦令によって反逆罪は消滅しました。

頼良は大いに喜び、赴任した頼義に対して同じ訓みの名を遠慮して頼時に改名して恭順の意をあらわし、誠心誠意服従したため陸奥国は平静にもどり、国司一期任期中の五年間を平穏無事に過ごしたのです。

しかし、陸奥守兼鎮守府将軍の頼義は任期の終了年、陸奥の有力な在庁官人藤原説任の子らが襲撃されたとして、安倍氏攻撃に兵を挙げたのです。後任の国司を追い返し、二期目に重任し、東国とりわけ阪東の兵を呼び寄せて攻めたのですが苦戦しました。頼義に三十年仕えたという相模の老武者佐伯経範は、頼義戦死の誤報に接して討死し、横山党も三代目党首經兼に率いられて参戦して、經兼の叔父の五郎が戦死しています。

そこで頼義は出羽三北三郡を支配する清原武則三顧の礼をつくして加勢してもらい、陸奥守就任以来十二年後にやっと安倍氏を降したのです。その結果、戦功は源氏よりも清原武則に与えられた鎮守府将軍に帰したのです。

頼義の子義家の陸奥国への再挑戦は、それから二十年後のことです。義家が陸奥守として赴任したとき、陸奥清原氏嫡流と庶流の間に内紛の火種を抱えていました。義家はこれを利用して火をつけ、俘囚清原氏の叛乱と京都に報じ、追討官符を要請したのですが、朝廷は義家の私戦と見なして認めなかったのです。義家は止む無く私財を投じて長期戦に持ち込み、清原勢の金沢柵を兵糧攻めにして陥落させたのです。義家の陸奥赴任から五年間の戦いは、地獄のごとしと惨状を伝えられています。


源頼義・義家父子の陸奥合戦はいづれも長期戦でした。東国や阪東から動員された兵は武装した在地領主です。彼等が長期にわたって戦えたのは、領主として農耕から解放され、その領内で武技を訓練する余裕があったことを示していました。郎党を率いて一軍をなす<武士団>として、在地領主はいつしか<武士>へ変貌していたのです。

義家の戦功は公的に認められず私の戦いとされたものの、供に戦った武士たちから武家の<棟梁>と仰がれました。現実的には<武士団>の私領が数多く義家に寄進されたのです。それは後世の本領安堵・新恩給付という領地を介した主従関係、いわゆる封建制の芽生えでもありました。

ところが、義家の奥州攻めの最中にはじまった白河上皇院政は、義家が私領を受取ることや<武士団>が義家に私領を寄進することも停止させてしまったのです。従来、この白河上皇の処置は、義家が武家の<棟梁>として強力になることへの牽制とされますが、それでは余りに漠然とした理由でしかありません。白河上皇には源氏の義家を排斥せねばならない必然性があったはずです。

まして、その後に立て続けに起きた源氏の内紛は、義家が実質的に武家の<棟梁>であったなら説明のつかない現象です。そして、義家の後継者となった為義の代官を殺害した横山党の所業も、源氏と<武士団>の主従関係の間には起き得ない出来事でした。