10 在地領主

将門の乱から一世紀近い後の万寿五年(1028)、房総半島で阪東諸国を巻き込んだ平忠常の乱が起きました。都では我世の春を謳歌して政権を主導してきた藤原道長の没した年のことです。

平忠常は上総・下総・安房国またがって私営田を経営し、在庁官人として上総権介でもあったのですが、安房国衙を襲撃して安房守を焼殺、上総国でも国衙を占拠して国司の上総介を軟禁してしまったのです。

朝廷は忠常蜂起の報せに驚いて直ちに追討使派遣の検討に入ったのですが、忠常は朝廷に敵対する意思はなく、内大臣に密書を送って追討中止を懇請すもとともに、随兵二・三十人を率いて安房国境の山中に立て籠もり、追討中止の返事に期待したのでした。

忠常の蜂起した理由は明らかに国司の徴税に対する在地領主の闘争です。忠常も公田請負人であり、国司の下で働く在庁官人でした。武装して国司の課した徴税を徴収するために働いていたのです。しかし、余りに過酷な国司の徴税に対しては、在地の利益代表として国司に対立したのでした。

そうした意味では規模こそ違え、忠常は将門の精神的な末裔にあたります。

忠常の乱によって阪東諸国は疲弊したと言われます。朝廷から追討使に任命された平直方は二年間、山中に立て籠もった忠常相手に合戦らしい合戦もせず、合戦に備えて許可された兵糧米徴収権によって、阪東諸国の官物を残らず徴発したため、住民たちは逃散し、在地武士たちの反感を買ってしまったからでした。

平直方は追討使を解任され、代って甲斐守の源頼信が起用されたのです。忠常蜂起の十数年前、頼信が常陸介として赴任した際、忠常は名簿を奉げて頼信に臣従していました。朝廷はその関係を利用して頼信の忠常追討に期待し、案の定、頼信の説得によって忠常はおとなしく山を降り、頼信に帰順したことでした。忠常の子孫はその後、上総氏として阪東でも屈指の巨大な武士団へ成長します。

源頼信は将門の謀反を朝廷に注進した源経基の孫にあたります。追討使を解任された平直方藤原秀郷とともに将門を討ち取った平貞盛の曾孫にあたります。面目を失った平直方は頼信の嫡子頼義を娘婿に迎え、鎌倉亀谷の館を与えています。平氏の女を母として生まれたのが八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光の三兄弟でした。

さらに頼信は相模守として赴任し、在地武士との関係を築き、源氏の阪東における拠点をはじめて置いたのです。


在地領主が国司に対立して、時には追討までされ、それでも成長・発展していく姿は横山党の場合にもあてはまります。平忠常の乱から八十数年後、横山党は相模国へ進出して国衙目代を殺害、阪東諸国から追討されます。

そのに至る前、彼ら在地領主たちが文字通り<武士団>となるための戦いがありました。鎌倉の源頼信・義家親子が仕掛けた前九年役・後三年役という奥州戦です。