09 母族横山氏

 赤駒を山野に放し捕りかにて 多麻の横山歩ゆか遺らむ 

武蔵国衙のあった府中から見て多摩川対岸の<多摩の横山>の地は、『万葉集』にも多摩の枕詞として歌われ、都人にも知れていました。そこには、畿内の古代氏族小野氏が武蔵国司や多摩の小野牧別当として赴任する以前から、小野郷があり、小野神社を祀り、そして小野牧がありました。

多摩の横山の地に住んで横山氏を名乗った一族は、荘園整理令によって一括された公田の一部の耕作を請負ったとすれば、それ以前からかなりの富豪であったと見なせます。その原資は官牧の小野牧にあったであろうことは疑いを入れません。つまり、横山氏の元は馬飼いだったということになります。

そこへ小野牧の別当から武蔵権介兼横領使に任じられた小野諸興の孫の義隆が住んで横山太夫を名乗ったということは、義隆が横山氏の婿に入ったということです。あるいは義隆の父隆泰が婿入して、横山荘で生まれた義隆が横山太夫を称したのかもしれません。いずれにしても横山氏は母系の母族であり、小野氏は父系の系譜でした。

武蔵七党をはじめ阪東に生まれた武士団のほとんどが畿内の古代氏族や公家貴族の子孫を称する者が多いのです。それらは系図上の仮冒であると一蹴され易いものの、地方の在地の一族が古代氏族や公家貴族の父系を得て、その子孫を称したのです。

例えば、桓武天皇五代の孫を称した平将門の母族は下総国寺原村寺田で、ここを地盤とした犬養氏の女を母として生まれました。将門を討って一躍名を挙げた藤原秀郷も父系は藤原氏北家の左大臣魚名の五代孫には違いないのですが、下野国衙の掾を務めた鹿嶋某氏の娘を生まれたのです。

東武士団の多くがその本姓ではなく、在住するその地名を名乗りとしたことは、一家の所領を<一所懸命>に死守する願いもあったでしょうが、元来からその地に居住した証しでもあったはずです。

横山党の始祖とされる横山太夫義隆の弟の時範(時資)は、北武蔵の児玉郡の猪俣を根拠にして荒川上流の北岸沿いに猪俣党を興すのですが、これも生母は猪俣の女で義隆の異母弟であったろうと思われます。

そこで横山氏の横山荘や館などを構えた根拠地は何処にあったのかということです。従来、八王子市内の横山町にある横山神社と横山氏供養塔の辺りとされているのですが、後に横山荘が鎌倉幕府に収公され、大膳大夫大江広元に与えられてから建てられたもので、疑問視されてきました。それより横山荘を与えられた大江広元が居城とした、同市内の片倉町の片倉城址の方が可能性があります。

というのも、ここから先にあげた北野天満宮も近く、また後に皇嘉門院に寄進した船木田荘や同荘園内にあった長隆寺に一族が埋経した場所からも近いからです。さらに、その後の横山党は武蔵国ばかりでなく、隣国の甲斐国相模国へも一族を布置しているのですが、その経路はおよそ相模川に沿っていて、片倉城はそれらの要の位置にあります。