08 多摩の横山荘

古代の律令制度による地方支配は受領国司によるものでしたが、実態は在地首長の郡司が持っていた伝統的な権力を前提にして徴税を請負わせていました。その結果、徴税をめぐって国司と郡司の間に必然的に対立が生じます。

また、地方へ下向して土着した王族やその子弟たちの荘園は国司の治外支配にあり、これも国司との間に対立の生じ易いものでした。武蔵国司小野(高向)利春を襲った源仕は、そんな王族の一人でした。そして、こうした対立の典型が国家に対する謀叛にまで発展したのが将門の乱に他なりません。

武蔵国造でもあった足立郡司武蔵武芝に対し、新任の武蔵権守興世王・介源経基が未納の税を取り立てようとして衝突したところへ、桓武平氏という王族の子孫であった将門が仲裁に入って失敗したのも、国司と郡司・王族あるいは王臣子弟の対立の結果でした。


しかし、こうした大事件は突然起きたわけではありません。

かつて出羽国の俘囚によって起きた元慶の乱の沈静化以来、俘囚基地となった阪東は、その俘囚に加えて武装集団による群党が横行していました。それは浮浪の集団というより「阪東諸国の富豪の輩」によって構成され、<イ蹴馬(しゅうば)の党>と呼ばれていました。<イ蹴馬>は物資を輸送する雇い馬を指すことから運輸業者の仕業という解釈もありましたが、近頃は逆に雇い馬を略奪する者で、任期の切れた官人や王臣貴族の子弟が土着した者と言われています。

宇多天皇の国政改革や醍醐天皇の荘園整理令によって王族や上層貴族の京都居住を義務化しようとした背景に、こうした群党の横行があったのです。なかでも武蔵国上総国に多く、朝廷は治安維持のため検非違使を配置して対応したのですが、それで治まるものではなかったのです。

任期の切れた官人はともかく、王臣の子弟が何故地方に土着したのでしょう。元をただせば桓武天皇の長岡・平安京への二度にわたる遷都と、数度の蝦夷征伐という軍事行動による、放漫経営にありました。後を継いだ嵯峨天皇は皇室財政まで逼迫させた父桓武の尻拭いをせねばならず、皇子・皇女を皇族から籍を抜いて臣籍に降下させたてしまったのです。自分で食って行け、と。

臣籍に降ろされると親王や王号のかわりに姓が与えられ、嵯峨の皇子たちは源姓とされ、これが嵯峨源氏になりました。その後、歴代の天皇・皇子たちは習って多くの子弟を臣籍降下させたのです。彼等は皇系ということから、はじめは貴族として扱われるのですが、その子孫は他の貴族同様に世間並になり、族滅してしまのも少なくなかったのです。

そんな中で京都に見切りをつけ、地方へ流れて行った言わば<流され王>たちも多くありました。その切っ掛けは地方官であっても、その子孫は土着して王胤の権威を振りかざし、中には<富豪の輩>へと成長していきました。

彼等が群党として横行している間は、朝廷もその武力を頼んで他の群党討伐に利用もしたのですが、それは一朝事有るとき、政府に対して叛乱・謀反をも辞さない威力をもっていたからです。

将門すでに柏原帝王の五代の孫なり。たとい永く半国を領せんに、あに非運にあらずと謂わんや。昔は兵威を振るいて天下を取る者、皆史書に見るところなり。

将門記』に載せる私君藤原忠平に宛てた平将門書状は、桓武より五代目の孫、正に<流され王>の子孫を自認した上で、列島の半分を武威をもって奪い取ることの歴史的正当性を主張しています。

その発端は武蔵国司と足立郡司武蔵武芝との紛争に、わざわざ下野国から出張って調停しようとしたのも、政府の出先機関である国衙権力とは異なり、相対的に自立した権威と武威を発揮しようとしたものでした。しかし、将門は調停の失敗に重ねて、同族である平氏の内紛がからんで常陸国衙を襲撃する叛乱へ突入していったのです。


この対立や謀叛事件にあって、特に逆らったり謀叛に加担したわけでもない武蔵武芝は、その後、急速に没落していきました。伝統的な国造家の子孫として祀っていた氷川神社神主の地位も娘婿の菅原氏に譲り、武蔵氏の名跡さえも失ってしまったのです。

その原因こそ徴税を国司の請負制へ変更したことにあり、その背景として荘園整理令がありました。まず、先に王族の子弟たちが地方に荘園を持ち、住み着くことを禁止したことに触れましたが、もっと具体的にいえば、それらの荘園は免税特権を有していて、国衙の支配から逃れていました。荘園整理令は土地調査のうえ公田に引き戻し、課税の対象に入れることでした。

そこで国衙は公田を適当な面積に分割して、所属や身分に関係なく経営可能な在地の富豪層へ請負わせ、面積に応じた租税を徴収することにしたのです。国司は任期四年の定められた租税を朝廷へ納める代りに、任国内では公田面積に対して税率を変えたりして徴収することができ、その差額は国司の個人収入になったのです。国司を務めれば一生困らない財産が蓄えられるとされた、商人と変らないカラクリがここに生まれたのです。

こうした土地支配は、それまで伝統的な権力によって直接人身支配をしてきた郡司層は、単に租税の徴収係りとなり、必然的に没落していきました。代って現われた富豪層の公田請負人たちは、同時に国衙の在庁官人を務め、国司の手足となって実務を担当しました。


将門の乱を切っ掛けに小野牧の別当から武蔵権介兼横領使に任じられた小野諸興は、小野氏系図によると孫の義隆のとき多摩の横山に住んで横山太夫を名乗ったといいます。多摩の横山は後に<横山荘>といわれる荘園のごときなのですが、荘園とすれば寄進先の領家があったはずなのに、その名は文献には一向に表れません。

考えられることは、荘園整理令によって公田に一括されたものの一部を、富豪の横山太夫が請負ったのではないかということです。