22 阪東独立国

阪東謀叛の報は直ちに京へ伝達され、これをうけた平氏は平惟盛を大将として数万の軍勢を東国へ出発させました。このとき頼朝軍はまだ墨田河の東、下総国にいたのですが、平氏軍の来襲を予測しており、石橋山から使者として甲斐へ向かった北條時政に対して、全軍の集合地を駿河国黄瀬河(富士川)宿とすることが伝達されました。

鎌倉に入った頼朝軍は十日後には出立、三日後の夜に黄瀬河宿に到着し、時政の催した甲斐・信濃の軍勢と合流しました。その総数二十二万と伝えます。そして二日後、平氏軍は水鳥の羽音に驚いて戦うことなく逃げ帰ってしまったと伝えるのは十月二十日の夜のことでした。

翌朝、頼朝は軍議において、逃走した惟盛軍を追って一挙に上洛するよう命じました。ところが、頼朝軍の中心である千葉常胤・上総広常それに三浦義澄らの宿老は、まず常陸の佐竹氏を討って東国を固めてから京都に攻め上ることを主張します。千葉・上総氏は直接佐竹氏の威嚇をうけていたので、その主張は私的なものに見えるものの、彼等ばかりでなく相模の三浦氏までがそれを主張したところに、阪東武士たちの謀叛の理由が表れています。つまり、彼等は平氏と戦ったり、上洛することに興味があった訳ではなかったのです。自分達の利益を守る体制が阪東に生まれれば、それでよかっただけなのです。彼等が頼朝を旗印に担いだのは、そのための手段であり、方便に過ぎなかったのでした。

そこで頼朝は妥協せざるを得ません。彼等の主張を受け入れ、敗走した平氏軍を追わず、最前線の遠江駿河国甲斐源氏安田義定武田信義を駐留させて相模国府へ戻り、諸氏に本領安堵あるいは新恩を給する論功行賞がありました。また、平氏方として敵対した大庭平太景義や河村三郎義秀などが斬罪に処せられています。

そして十一月に入ると常陸源氏佐竹氏の金砂城攻めに常陸国府にはいりました。佐竹氏は甲斐源氏と先祖を同じくする源義家の弟新羅三郎義光の子孫ですから、この戦いに甲斐源氏を伴なわなかった頼朝の用心深さがうかがえます。

金砂城は山間の断崖絶壁の頂上にあります。天嶮によった金砂城の守りは固く、正面攻撃の非をさとって佐竹氏の縁者にあたる上総広常に内通者を出させ、背後から襲うと佐竹軍は壊滅してしまいました。城を守っていた秀義は深山に逃亡、奥州境の勿来の関に近い花園城へ退去したのです。佐竹氏の奥州藤原氏との関係が考えられ、阪東を独立国とする頼朝の敵の一つが奥州独立国であることが浮上します。

鎌倉へ戻った頼朝は侍所の別当(長官)に三浦党の和田義盛、所司(次官)に鎌倉党の梶原景時を任じ、御家人の取締りに当たらせました。十二月半ばに新築成った頼朝の屋敷で移転の儀式が行われ、当日、侍所に出仕した御家人の数は三百十一人といわれます。鎌倉御家人とは、頼朝から私領の領有を保証してもらう代わりに、大番警護や軍役に奉仕する個人的な主従関係をいいます。こうした御家人を統率する侍所別当和田義盛が選抜されたのは、三浦党総帥の三浦義明らの討死に対する恩賞の意味がありました。

この和田義盛の妻は横山党の五代目党首時重の娘であり、所司の梶原景時は時重の妹を母として生まれたという、両者供に横山党と深い婚姻関係にありました。この二年後に頼朝の嫡男頼家誕生に際し、時重の孫時兼は有力御家人と供に御護刀献上の栄誉に浴するのも、こうした関係によるものと思われます。しかし、この関係はまた横山党の消長にも深く関わることになります。


そのころ西国の平氏は福原遷都から半年にしてに再び京都に戻り、源氏方に組した近江の園城寺はじめ、奈良に出兵した平重衡によって東大寺興福寺を焼討、僧網(僧侶の位階)を剥奪、寺領の荘園などを取り上げていました。

そして翌年正月には、平盛俊らを五畿内と近江・伊賀・伊勢・丹波の九ヶ国の惣官職および諸国荘園惣下司職に任じ、兵糧米を国司や貴族などを通さず直接徴収するようにしました。それは後の頼朝の鎌倉政権に先駆けた平氏の軍事政権の樹立でした。しかし、この月に高倉上皇が没し、翌閏二月四日には平氏の総帥清盛が高熱を発して悶死してしまったのです。


この年(1181)の七月、治承五年は養和元年に改元されたのですが、阪東の頼朝はそのまま治承年号を使い続けました。これによって天皇改元を認めず、阪東が畿内政権からの独立国であることを主張したのです。

八月、平氏は奥州の藤原秀衡陸奥守に、越後の城助職に越後守に任命して、諸国の源氏追討を命じました。それより先に、城助職は信濃国へ侵入して、木曾・佐久・甲斐武田氏の連合軍に惨敗していました。越後国ではこれによって国人(地方豪族)が蜂起して越前まで波及し、平義盛の知行国で息子の教経が国守の能登では、目代は都へ逃げ、国司の郎従は惨殺される始末で、平氏の追討使が派遣されました。鎌倉にはこれが、木曾義仲に対する追討という誤まった情報がもたらされています。

この年から翌年にかけて西日本は飢饉に見舞われ、鴨長明の『方丈記』によると、京都の左京だけでも二ヶ月に四万二千余の餓死者が出たといわれ、兵糧米を確保できない戦局は水入り状態になりました。


寿永二年(1183)、阪東は治承七年ですが、二月に頼朝の叔父で常陸国志田義広が挙兵し、下妻広幹や秀郷流の藤姓足利忠綱などと数万騎を率いて鎌倉を襲おうとして、常陸から下野国へ進出しました。かつて頼朝が常陸の佐竹氏を攻めた際、志田義広常陸国府で頼朝に逢っていたのですが、義広もまた源氏の棟梁たらんとして挙兵したのです。

それに対して同じ秀郷流の小山氏、下総の下河辺氏などが頼朝側に立ちました。はじめ小山朝政は志田義広に同調するかに見せかけて、義広軍を下野の野木宮に引きつけて襲い掛かったものでした。頼朝はこの小山朝政の援軍として異母弟の源範頼を派遣しています。激戦の末、義広軍は四散し、敗走した義広は信濃木曾義仲を頼って落ちて行きました。

これによって義仲と頼朝の仲が悪化し、頼朝は数万の軍勢を碓氷峠を越えて信濃国へ侵入させました。結局、平氏との戦いの前に同じ源氏の頼朝と戦うことの不利を悟った義仲は、十一歳の嫡子義高を頼朝の長女大姫の婿にすることを条件に、頼朝の威嚇に屈したのです。頼朝との和議によって後顧の憂いのなくなった義仲は、京都へ向かって快進撃をしました。

しかし、義仲が上洛しても、既に勲功の第一は頼朝に格付けされていたのです。元来、頼朝は幼くして中央の官職に就き、義仲のように無官の地方武士ではなかったのです。頼朝は義仲が上洛する以前から、高倉上皇が逝って返り咲いた後白河上皇を相手に、京都工作を着実に進めていました。

頼朝が常陸志田義広を討った際、『吾妻鏡』は「朝威を仰ぎ、官軍を待ち具し」たと記しています。つまり、頼朝が義広を討つことは既に朝命であったということです。頼朝が阪東独立国の徴である治承年号を使い続けたのは、この時までのことでした。

この年、頼朝は東国の荘園を本所に返還する代りに、御家人に対する支配権を朝命によって保証する<寿永二年十月宣旨>を得たのです。と同時に、頼朝は流人であり謀反人であったことから、平治の乱以前の従五位下の位に復帰したことでした。

そして十二月、石橋山の敗走以来、二万の大軍を率いて頼朝軍の主戦力として戦ってきた上総介広常が頼朝の命令にって侍所所司の梶原景時に暗殺されました。このとき阪東武士団の独立国は三年の命脈をもって終ったのです。異母弟の範頼・義経が頼朝の代官として阪東の軍勢を率い木曾義仲平氏打倒に西国へ出陣したのは、この直後のことでした。