23 総社六所宮

元暦元年(1184)六月、信濃源氏平賀義信は頼朝によって武蔵国国司および守護人として武蔵守に任命されました。八月には伊賀国で戦功を重ねた嫡男の大内惟義が相模守となり、両国を父子で支配するほど頼朝に信頼され、常に御家人の首座に位置づけられていたのです。翌年十一月には、武蔵国惣検校職だった河越重頼が、頼朝から離反した源義経の舅という理由で所領没収の上、誅殺されていますから、武蔵国を治めるには苦労したはずです。

この年の正月には同じ信濃源氏木曾義仲が近江栗津に敗死、四月末には義仲の嫡男清水冠者義高が誅殺されています。この一年前の春、頼朝は信濃国へ数万の軍勢を侵入させ、両者の関係が不穏な状態になりました。そのとき頼朝軍が碓氷峠を越えて抵抗も無く信濃国へ進軍できたのは、信濃佐久平の平賀郷を領した平賀義信が頼朝軍を手引きしたからでした。

平賀義信の武蔵守就任はその功に対するものです。もっともそれ以前、平治の乱のとき義信は義朝に属し、合戦に敗北して戦場離脱したとき、平氏軍に斬り込んで活躍した姿を、当時十三歳だった頼朝も目撃していたはずです。


律令制時代の国衙は朝廷の任命した国司武蔵守の政庁のみでしたが、平賀義信武家である源氏によって任命された守護人としての武蔵守でもあったのです。

おそらくこの違いがもたらしたと思えるものが、武蔵国総社六所宮の神主の任命があります。現在の大国魂神社にまで世襲された神主猿渡氏の初めは、武蔵守平賀義信によって決められたのでした。

武蔵国総社六所宮というのは、実は武蔵国総社と六所宮の二つを併せたもので、元は街道を挟んで向かい合った別々の神社でした。武蔵国総社の方が先に有り、国司武蔵守が国中の各地にある地主神へ人心掌握のために一々詣でることを簡易化するため、国衙の近くにまとめて勧請したものです。それが国衙の地元の小野神社を一宮として六社あったことから、別の六所宮と混同されて伝えられてきたようです。

では六所宮は何時創建されたのでしょう。

現在の大国魂神社の大鳥居にいたる参道の両脇には五百米にわたって続く欅並木は、源頼義・義家が奥州前九年の役出陣の際、安倍氏討伐を祈願し、鎮定後の康平五年(1062)千本の欅の苗木を奉納したのが最初と伝えられています。六所宮は各地にありますが、菊池山哉によると蝦夷討伐祭祀のために六所の宮を祭ったのだといいます。ですから室町時代はじめ頃までは総社と六所宮は分かれていたのですが、その後、深大寺長弁住職の日記『私安抄』に記された願文では「武蔵総社六所大明神」と呼ばれて両社は紛らわしくなってしまったのです。

平賀義信が任命した神主猿渡氏とは、ですから武蔵国総社ではなく六所宮の神主であったろうと見なせます。それまで総社には特定の神主はなく、国衙の在庁官人がその都度任命されていました。


ところで、神主猿渡氏は何処から来たのでしょう。
明治三年十二月、総社六所宮神主猿渡守枝が品川県庁へ差し出した「社職家系」によると、猿渡氏は京都で藤原氏の末裔だっものが高倉宮以仁王の挙兵に加担して敗れ、相模国大住郡の小地名である猿渡に潜居し、付近に曾我・遠山・猿渡等の遺跡が明治の初めにも有ったといいます。

大住郡内で西側の足柄下郡曾我に近いとすれば両郡の境界地帯と思われるものの、その辺り猿渡の地名は残っておらず、ここから北側にひろがる余綾郡の波多野荘の北方、丹沢山塊に分け入った水無川の上流、戸川の林道を登った名水竜神の泉の辺りに猿渡堰堤や山小屋猿渡山荘あるので、この辺りかと思われます。遠山のそれも後に猿渡氏に養子に入った遠山氏で、足柄上郡の松田に開基した延命寺を指すのではないか。当時、波多野荘は摂関家領の下司であった波多野氏、松田も波多野氏一族の河村荘の内にあり、従って猿渡氏は摂関家に仕えた波多野氏を頼って相模国に潜居したものと推測できます。

先の「社職家系」によると、潜居した地名から猿渡氏を称し、武蔵守平賀義信の元で国衙の職員に加わり、文治年中、総社と国分寺造営のとき目代として経営にあたり、終いに総社の神主職に補せられたといいます。神主になったのは弟某で、兄の藤三郎元信は御家人として武蔵国小机佐江戸の地頭になり、後に薩摩国島津荘などの地頭職を務めた惟宗忠久に仕えたといいます。

当初この「社職家系」に対して不信をもっていたのですが、後に『吾妻鏡』の建久六年(1195)三月十日、頼朝が二度目の上洛で東大寺大仏の開眼供養に臨んだ際、騎馬の随兵のなかに横山権守・相模小山四郎と三騎並んで「猿渡籐三郎」の名を見つけるにおよんで、見直さざるを得なくなりました。『吾妻鏡』の猿渡籐三郎は「社職家系」にいう猿渡藤三郎元信に他ならないと思えるからです。この猿渡藤三郎元信が地頭になった小机佐江戸の地は、現在の横浜市都筑区佐江戸町にあたり、この地にある無量寺は猿渡氏の菩提寺と伝えられます。

それでは、猿渡氏が鎌倉御家人となり、島津氏に仕えたり、総社六所宮の神主になれたのはのは何故でしょう。京下りの猿渡氏をかくまったと思われる波多野氏は秀郷流藤原氏の子孫ですが、奥州を攻めた源頼義以来、源氏に仕えてきたも同然でした。しかも、波多野義通の妹は源義朝の次男朝長を生み、その縁から義通は保元・平治の乱に義朝軍に参戦しました。ところが平治の乱とき、朝長より熱田神宮神主の娘が生んだ三男の頼朝の方が上位の官職を得たのに立腹して、義通は帰国してしまったのです。

源氏から離脱した波多野氏は頼朝挙兵のとき、義通の子松田義常は挙兵を誘われたのに過言を吐いて拒絶し、乱後に自殺してしまい、叔父の河村秀高も平氏方として敵対したことから捕らえられ、所領を没収されて斬罪のため大庭景義に預けられたが、景義の計らいで十年後に流鏑馬の腕を買われて許されています。景義の妹が松田義常に嫁いでいたこと、さらに河村秀高の生母は横山党の女で、景義と同族の梶原景時の生母と姉妹でした。

こうした反頼朝の波多野氏でしたから、そこにかくまわれた猿渡氏が波多野氏の世話で世に出た可能性は有りません。


武蔵守に補された平賀義信の妻は頼朝の乳母比企局(尼)の三女でした。また、比企局(尼)の嫡女丹後内侍の夫は惟宗広言、つまり島津忠久の実父です。しかも、比企氏は波多野義通の叔父遠光に初まるとされる同族でした。つまり、波多野氏にかくまわれた猿渡兄弟は、波多野氏の同族である比企氏の相婿にそれぞれ引き取られたということになります。

こうして平賀義信が総社六所宮を支配したことは、総社一宮の小野神社を氏神とする横山党小野氏をはじめとする武蔵七党などの武士団を制御するのに役立ったはずです。上に挙げた東大寺大仏の開眼供養に猿渡籐三郎と騎馬を並べた横山権守・相模小山四郎とは、横山党六代目党首横山時廣と庶流の小山氏のことです。総社六所宮の後身である現在の大国魂神社の大祭である暗闇祭では、横山氏の子孫が重要な役目を担っています。そして現在の大祭でも武蔵国中の神社から神輿が寄せられます。

因みに、平賀義信と横山党小野氏との間にも遠いというか、少し回りくどい親戚関係が生じています。義信が武蔵守に補されてからと思われますが、後妻をもらっています。この女性の先夫は伊東祐清で、平家方として石橋山に頼朝軍を攻め、後に許されたのですが、平氏軍に加わって北陸戦線に就いて戦死したのは義信の武蔵守就任の前年のことでした。この祐清夫妻、かつて河津三郎が工藤祐経に殺された後に生まれた河津の赤子を養子にもらていました。祐清が戦死して平賀義信に嫁いだとき、その子も義信の再養子になったのですが、この子が曾我十郎・五郎兄弟の末弟禅師です。そして彼等の母は横山時廣の姉妹にあたるのです。

武蔵守としての平賀義信の治政評判は大変良く、頼朝は「民庶雅意に叶う」と称して感状を与え、以後の守護は義信に倣えと国衙に壁紙までされました。しかし、平賀氏もまた鎌倉の権力争いに巻き込まれざるを得ません。