24 富士の裾野

元暦元年(1184)正月二十日、近江国栗津(大津)で木曾義仲が阪東の大軍に攻められて敗死してから数ヶ月後、鎌倉に人質になっていた義仲の嫡男清水冠者義高は、大姫や付け人の計らいで脱走したものの、入間河原まで逃げて追手よって誅殺されてしまいました。いうまでもなく、義高が親の仇として頼朝を狙うことを恐れての誅殺です。

そのとき義高の身代わりとなって周囲を誤魔化したのは、信濃から義高に従って来た付け人一人海野小太郎幸氏でした。小太郎幸氏はその後、主人想いの大胆な行為に免じて本領安堵され、頼朝の近侍に加えられました。これ以上、義仲残党に狙われることを怖れた頼朝の処置でしょう。


海野一族は望月牧の牧監を務める信濃屈指の豪族でした。義仲が信濃で挙兵したとき、真っ先に参じたのが海野氏です。ところが、小太郎幸氏の父幸長はそれ以前から上洛して学者になり、出家して南都興福寺で得業の僧位を取り、しかも挙兵上洛した木曾義仲の元で大夫房覚明を名乗る手書き、つまり祐筆を務めていました。倶利伽羅峠の戦いのとき、勝ったら白山へ所領を寄進するからと、有名な「木曽殿願書」を書いたのは覚明だったのです。

義仲が栗津で敗死したとき、付き従っていた覚明も戦死したと思いきや、行方をくらまし、数年後には箱根山権現社の名僧として大胆にも鎌倉御所に現われ、一条能保の妻だった頼朝の同母妹の追善法要に導師を務めたものです。奥州藤原氏が討たれた翌年のことです。無論そのときは義仲の祐筆だったときの大夫房覚明ではなく、南都興福寺時代の信救得業を名乗って前身を隠していました。

武家の海野一族出身の信救得業の大胆さは今にはじまったわけではなく、以仁王平氏打倒を掲げて近江の園城寺に挙兵したとき、同与を求められた南都興福寺に信救得業がいて、園城寺への同調とともに「清盛入道は平家の糟糠、武家の塵芥なり」と悪態をついた返牒を書いたことでした。そこで信救得業は激怒した清盛の追手を逃れるため、事も有ろうか自ら漆を身に浴びて顔を癩病人にごとく変形させて南都から脱出したのです。

そんな信救得業が箱根権現の名僧におさまることができたのは、やはり木曾義仲に仕えたことによるものと思われます。というのも、権現社の別当行実は京都から離れられなかった源為義の阪東における代官でしたから、父為義から離反し、保元の乱に敗れた為義を斬処した義朝とその子頼朝を快く思っていなかったはずです。そして、義朝の代わりに阪東へ送られた義賢もまた義朝の長男義平に大蔵館を急襲によって殺されました。この義賢の子が木曾義仲だったからです。

しかも、義仲の兄仲家は義賢が阪東へ下向するとき、以仁王を担いだ摂津源氏頼政の養子となり、南都へ逃亡途中の宇治で養父と供に敗死してますから、いわば信救得業とは同志の関係にあったことになります。

そういう前歴の信救得業が箱根権現に来て頼朝の眼前に現われたということは、密かに信濃源氏木曾氏の仇討ちが目的だったのではないか、と思われるのです。とはいえ、信救得業がいくら武家の海野氏出身で大胆であっても、所詮は学者であり僧侶であるに過ぎません。自ら手を下すことは叶わないでしょう。


信救得業が箱根権現に紛れ込んだ同じ時期、曾我兄弟の弟五郎も箱根権現に入山しています。木曾義仲の敗死と嫡男義高が殺された翌年のことです。母の願いで非業の死を遂げた父河津三郎の菩提を弔うべく、箱根山別当行実の稚児となったのでした。ところが数年たって頼朝妹の追善法要から二ヵ月後、いよいよ明日は剃髪して出家の身となることを告げられた五郎は箱根山から脱走し、兄十郎と連れ立って北條時政の屋方をおとづれ、烏帽子親になってもらって元服しました。五郎十七歳のときです。

母の願いを裏切った兄弟は曾我の家から勘当されてしまします。兄弟が曾我氏を名乗るのは、実父の河津三郎が殺された後、生母が御家人の曾我祐信と再婚したことによるものです。しかし、祐信にも前妻との間に嫡子祐綱がいて、曾我荘意外に所領のない小身の御家人としては庶子の兄弟に分与する余裕はなかったのです。

継父の曾我家を勘当されてしまった兄弟は、その後、実父河津三郎が出た伊東一門と生母の出た横山党の親類縁者の家々を転々として時を過ごします。五郎の元服に烏帽子親になってくれた北條時政も伊東一門の出でした。兄弟が富士山裾野の巻狩に仇の工藤祐経を討ち果たしたのは、それから二年後のことでした。

頼朝はこの前年までに平氏を西海に没落させ、陸奥の藤原王国を滅ぼし、上洛して右近衛大将権大納言に任命されたものを即座に辞退、後白河法皇の万歳後に征夷大将軍に補任され、その喪も明けたのを期に阪東一円をデモンストレーション、軍事演習を兼ねた巻狩を重ねてきたのでした。

兄弟は狩庭の宿舎へ忍び込んで工藤祐経の寝込みを襲って討ち果たすと、駆けつけた御家人たちを次々に斬伏せ、いわゆる「十番斬り」の末、兄十郎は討たれ、弟五郎は取り押さえられてしまいました。ところが、五郎は取り押さえられる直前、頼朝に刃向かって突進したのですから、頼朝の命をも狙ったことは確かなことでした。

そして、ろくに戦場経験もない二十歳そこそこの兄弟が歴戦の御家人相手に何人も切り伏せたという仇討事件の背後に、政治的な武力衝突があったのではないかと歴史学でいわれています。何者かが兄弟の仇討を利用して頼朝暗殺を謀ったのではないか、というものです。その犯人としては北條時政や大庭景義・岡崎義実の名が挙がっているのですが、いずれも頼朝の家来である鎌倉御家人です。つまり、幕府内部の権力争い説です。

武家政権として鎌倉幕府が開かれたとはいえ、未だまだ安定していたわけではなかったのです。一年前には鎌倉の永福寺造営の現場で、工夫に紛れた平氏の残党上総五郎兵衛忠光に頼朝の命を狙われています。また、この巻狩の直前、御家人の中でも、武蔵七党丹党と児玉党が軍事衝突寸前の危機に見舞われ、彼等を取り締まっていた武蔵国惣検校職の河越重頼亡き後の代理を務めた畠山重忠に両者を調停させたほどでした。頼朝は狙われていたのです。

箱根山権現社の覚明こと信救得業は曾我兄弟の仇討の半年後も、まだ箱根山に居座っていて、頼朝が開いた父義朝の追悼供養の願文を書いてほどでした。曾我兄弟に親の仇討ばかりでなく、頼朝の命まで狙わせたのは、この覚明ではなかったのか、ともいえます。

しかし、仇討の背後で武力衝突があったほどの一団を動かせる力は、兄弟は無論のこと、覚明にもありません。


仇討事件から三ヵ月後、頼朝の弟で前三河源範頼に反逆の風聞によって、起請文を頼朝に出さされています。仇討事件のとき、頼朝が暗殺されたという噂が流れ、心配する頼朝の妻政子に留守をしていた範頼が「自分がいるから安心なさい」と慰めた言葉が、頼朝に取って代わろうとしたと噂されたのでした。

ところが、範頼の家人で弓刀に優れた当麻太郎が頼朝の寝所の床下に忍び込んで捕まったことから、当麻太郎は薩摩へ流され、範頼は伊豆の狩野介宗茂と宇佐美祐茂に預けられました。祐茂は曾我兄弟に討たれた工藤祐経の弟で、す。さらに範頼の家人らが頼朝を襲おうとして鎌倉で捕まっています。その中の一人が京小次郎といい、曾我兄弟の異父兄だったのです。


以仁王を奉じて平氏打倒に挙兵した摂津源氏頼政は、それ以前は伊豆の知行国主で、嫡子仲綱を伊豆守とし、現地へ仲綱の乳母子で左衛門尉仲成を目代として派遣しました。この目代仲成と伊豆国衙の在庁官人狩野介茂光の孫娘で、横山時重の娘との間に生まれた一男一女の一人が京小次郎でした。仲成が帰京したため、その妻は祖父の茂光に養われ、後に河津三郎と再婚して曾我兄弟が生まれたのです。『曾我物語』では、兄弟が兄小次郎に仇討を持ちかけ、今さら仇討なんぞと断られていました。

おそらく京小次郎は父仲成に連れられて上京し、主人筋である頼政の世話にもなったでしょう。そして、遠江国蒲生御厨で生まれて蒲冠者と呼ばれた範頼は、幼児のとき京の中流貴族藤原範季に育てられたのですが、範季の父能兼の姉妹が頼政の生母だったことから親しい間柄にありました。京小次郎が範頼に仕えたのも、そんな関係から生じたものと思われます。しかも、頼政の養子に木曾義仲の長男仲家がいて、頼政と供に宇治の戦いで戦死しました。箱根山に潜り込んだ義仲の元祐筆覚明がこうした関係を知らなかったはずは有りません。

とはいえ、範頼が富士の裾野で軍勢を動かしたとしても、それは木曾源氏の仇討が目的だったはずは有り得ません。頼朝にとって富士の裾野の巻狩りは十二歳の嫡男頼家への代替わりの披露を兼ねていました。この頼家の乳母の三人までが比企氏の女であり、その一人嫡女丹後内侍が安達藤九郎盛長と再婚して生まれた娘が範頼の妻になっていたのです。もしも頼朝が殺されて頼家が跡継ぎになれば、叔父にあたる範頼の立場は絶大であったことになります。範頼の失脚は後の比企氏没落の予告でもあったのです。


富士の裾野の事件から二年後、とうとう箱根権現の信救得業が実は木曾義仲の祐筆覚明であったことが露見して幕府から手配されたのですが、そのとき覚明は既に箱根山から行方をくらまして京へ舞い戻り、比叡山法然親鸞の弟子になっていました。一説に『曾我物語』や『平家物語』の作者はこの不敵な男といわれます。