25 御霊と稲荷

HON22006-12-08

富士の裾野で死んだ曾我兄弟は後に富士郡六十六郷の御霊神として祀られました。仇討ちを果たしたものの頼朝殺害に失敗して非業の死を遂げた兄弟は御霊神となり、守護霊として祀られたのです。富士郡北条時政の所領ですから、そこから頼朝殺害を計った張本人も時政であろうという説も出てきます。

それはともかく、鎌倉は本来から御霊信仰の地でした。鎌倉党の始祖鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社を鎮守とする地だからです。景政自身は何も非業の死を遂げたわけでは有りませんが、神社の御利益は眼病に効くとありますから、奥州戦に八幡太郎義家麾下として金沢柵で戦ったとき、右目を射られても慌てず、敵に逆襲したという武勇伝の持主でした。鎌倉党の大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉という鎌倉党五家の始祖、五霊が御霊に転じたのではないかともいわれます。


権五郎景政の命日とされる九月十八日、鎌倉坂ノ下の御霊神社祭礼の日、境内の湯花神楽の後に面掛行列が繰り出します。行列は先行する神輿の後、お囃子と幡持ち連に続いて、猿田彦獅子頭、爺、鬼、異形、長鼻、烏天狗、翁、火男、布袋、それにオカメの孕み女と取り上げ女、最期に猿田彦が控えています。これらが揃って仮面を被って、極楽寺坂下の虚空蔵堂前の星の井と長谷の間を往復する道中を、ぞろぞろ歩くという異様な行列です。行列の主役はオカメ面の孕み女で、地元では「孕みっ人行列」と呼ばれ、妊婦の孕み女の滑稽な仕草は見物人を喜ばせ、また見物の女性の中には妊婦のお腹を触らせてもらう人も出ます。

極楽寺坂の切り通しは北条氏の執権時代になってから、真言律宗の忍性が極楽寺へ通じる路を付近に住み着いていた貧民や病人救済の便に彼等を動員して開いた坂道です。この面掛行列の元は非人面行列と呼ばれ、明治の神仏分離以前は八月十五日の鶴岡八幡宮の例祭行事だったのです。

巷間の伝えによると、孕み女の名は菜摘御前(なつみごぜん)と通称され、藤原頼兼こと鎌倉弾左衛門という非人頭の娘とされています。弾左衛門は御霊神社などの掃除や人足を統括していた長吏でした。『新編相模国風土記稿』によると、極楽寺から稲村ヶ崎へ降る途中の字金山に摂州より移りきた長吏が居住し、鶴岡八幡宮の祭祀のときは烏帽子に素袍を着て先立ち例あり、と記されています。非人頭の娘である菜摘が鎌倉殿頼朝の子を孕んだというので、非人たちがお祝いに繰り出したのが例祭のはじめと伝えています。
女好きで評判の頼朝ですが、何故、非人の娘を孕ませたのでしょう。それは頼朝が平氏打倒へ挙兵し、石橋山の戦いに敗走したとき、その蔭で危機を救ったのが鎌倉弾左衛門の一党で、その功労に対して長吏のお墨付きをもらい、おまけに娘の菜摘御前にはお胤をいただいたということらしいのです。


文治元年(1185)八月二十七日の『吾妻鏡』に、御霊社が地震の如く鳴動したとあります。大庭景能が驚て頼朝に報せると、頼朝は自ら参って願書一通を奉納の上、巫女等の面々に藍摺二反を賜物し、御神楽を行ったといいます。御霊社と頼朝の間に徒ならぬ関係を示唆しています。

また、この年の四月、頼朝の夢枕に老翁が現われ、「我は西の方の隠れ里に住む宇賀福神なり。汝よろしくわが泉をくんで祈るべし」とお告げがあったので、頼朝は隠れ里をおとづれたという伝えがあります。隠れ里の宇賀福神とは通称銭洗弁天こと銭洗弁財天宇賀福神社の祭神のことです。

さらに銭洗弁天の近くに佐助稲荷神社があります。略縁起によると、「頼朝が伊豆の流人時代、一夜老翁が現われ、公は清和の嫡流にしてまさに天下統一すべし、早く義兵を起こして奢れる平氏を討滅し宸襟を安んじ給へ、我は鎌倉鎮座の稲荷の神なり、時節到来を告げ知らすなり、と御声と共に失せ給う」とあります。それが何故か、文治元年は巳年で巳の月の巳の日だったと伝えています。そこで、平氏を倒せたのも稲荷神の助けがあったからと、畠山重忠に命じて社殿を再建させたと伝えます。配流以前の頼朝の官職が兵衛佐であったことから佐殿と呼ばれ、それを助けた稲荷神だから佐助稲荷神社と呼ばれるようなりました。

御霊神社の非人面行列が元は鶴岡八幡宮で行われていたのは、かつて源頼義が石清水八幡を勧請した元八幡を頼朝が小林郷の北山に転じたとき、その地に荷神神を祀る松ヶ丘明神が鎮座していて、鶴岡八幡宮のために譲らねばならなかったからです。そのためか佐助稲荷神社は鶴岡八幡宮が非常の際のお旅所とされていました。


鎌倉の地主神ともいえる稲荷社の宇賀福神は何処からもたらされたのでしょう。

稲荷といえば即狐と相場が決まっているようですが、それは比叡山といえば猿とされるように、本来の祭神と神使を取り違えたものだったのです。稲荷社の本社である伏見稲荷神社の御神符に明らかなように、稲荷の祭神は宇賀神で、人面蛇体の蛇神です。佐助稲荷の御告げが巳年で巳の月の巳の日だったのも、祭神が紛れもなく蛇神の宇賀神だったからでした。

伏見稲荷神社は古代最大の渡来氏族である秦氏氏神として、和銅四年に創建されたことは『延喜式神名帳頭註』などに明記されています。しかし、稲荷山はそれ以前からあり、峰から奈良朝以前の銅鏡なども出土しています。陰陽五行思想に詳しい吉野裕子によると、稲荷山の神が蛇神から狐に替えられたというか、狐を神使として追加されたといいます。和銅年間の初め、諸国で長雨がつづき、水害と飢餓が蔓延しました。そこで水を塞き止める土手の土気・土徳を持つとされる狐神鎮祭として和銅四年に伏見稲荷神社が創建されたということです。従って、鎌倉に勧請された稲荷神は正しく稲荷の祭神を伝えていたのです。

藤原頼兼こと鎌倉弾左衛門と鎌倉の関係の発端について、江戸時代の『大日本人名辞書』に次のようにあります。弾左衛門の先祖は秦武虎といい、平正盛の女に惚れて奪わんとし、正盛に追われて阪東へ逃げ、頼朝に仕えて捕吏の支配を命じられたとあります。徳川時代の書ですから、さらに続けて、その裔は徳川家康に仕えて罪人取扱いと畜類の死屍を取扱うといいますから、江戸の弾左衛門へつなげられています。鎌倉と江戸の弾左衛門が血統的につながるとも思えず、おそらく職能的に同類と見なされたのてしょう。

平正盛源義家の嫡男で前對馬守義親を追討して一躍伊勢平氏の名を挙げ、後の平氏全盛の切っ掛けをつかんだ男でした。鎌倉弾左衛門の先祖が正盛に追われて鎌倉に逃げてきたとすれば、義家の奥州攻めの後にあたり、鎌倉権五郎景政が浮浪人を集めて盛んに鎌倉の開拓を進めていた時期にあたります。これが伊勢神宮へ寄進されて大庭御厨になりました。その鎌倉へ弾左衛門の先祖は逃げて来て、稲荷神を祭り、自らの職能を果たすようになったのでしょう。弾左衛門の先祖は秦武虎という秦氏を名乗っていたということは、秦氏氏神を勧請したことになります。


鎌倉の亀谷に頼義以来の源氏の館がありました。頼義が相模守として下向したとき、 平直方の娘婿となって譲与されたものです。嫡子義家の生まれた場所が長谷の甘縄神明社と伝承されますが、そこは御霊神社の真近にあたり、佐助稲荷や銭洗弁天も遠くありません。銭洗弁天の北側に現在も梶原の地銘をのして、鎌倉党梶原氏の梶原郷にあたり、その先に大庭御厨が広がっていました。

頼朝の父義朝がまだ二十三歳のとき、阪東に下向して鎌倉亀谷の館を拠点にして、相模国衙の在庁官人三浦・中村氏ら有力な武士団一千騎を率いて鎌倉党の大庭御厨へ乱入して奪い取り、これを源氏もまたて伊勢神宮へ寄進しました。結局、裁判になって源氏は敗訴したのですが、武力的には鎌倉党が源氏に制圧されてしまったのです。

そして頼朝の代になると今度は鎌倉党の領内に幕府が置かれ、稲荷神を祭っていた松ヶ丘明神は鶴岡八幡宮に占拠されてしまいました。そのため鎌倉党が源氏に対して遺恨を抱かぬはずはなかったのです。

しかし、万事に用心深い頼朝のことですから、鎌倉党の家督を継ぐ大庭景能を鶴岡八幡宮俗別当に充て、同族の梶原景時を侍所の所司に補したことでした。鶴岡八幡宮の正式な宮別当は京都から呼んだ中納言法眼円暁、輔仁親王源義家女の孫ですが、それまでは梶原景時と縁のある伊豆山走湯権現の専光坊良暹が臨時の宮別当でした。

頼朝が権力の座へ登って行く過程で犯した暗部を、一手に引き受けたのは梶原景時です。その手先となって隠密の役目を果たしたのは<雑色>と呼ばれた身分の低い者たちでした。それらは伊豆山走湯権現の修験山伏の他に、鎌倉弾左衛門配下にあった諸職の<道の者>たちもいたはずです。

長吏が居住していたという字金山の辺りから稲村ヶ崎極楽寺川が流れていて、ここから採れた砂鉄によって鍛えられたのが、鎌倉時代末にはじまるとされる相州正宗の名刀です。長吏弾左衛門配下の諸職のなかには、そうした武器や武具を製作する者もいました。当時は欠かすことが出来ない馬具もまた彼等の手になったことでしょう。

彼等が武具や馬具を作ったとすれば、横山党の娘を母として生まれた鎌倉党の梶原景時がその仲介をしたはずです。横山党は武蔵国最大の小野牧を経営していたのですから。頼朝軍が奥州藤原氏を倒した翌年、横山時広は藤原泰衡を梟首した功により淡路国国分寺を所領としていますが、その三年後、淡路から鎌倉へ前足五つ、後足四つの異馬を献上するという、馬牧経営者ならではのエピソードを『吾妻鏡』は記録しています。