03 小野猿麻呂

二荒山の鉄鐸レプリカ

先に断っておきますと、一般に混同されてますが、歌人猿丸大夫とこれから述べる小野猿麻呂は別人です。

猿丸大夫柿本人麻呂だとする梅原猛説(『水底の歌』)もあるように藤原京時代人でした。小野猿麻呂は長岡京から平安京初期の人で、その間、百年ほど時代差があります。両者の混同が生じた理由は、その名が似ているばかりでなく、猿丸大夫を出した柿本氏と小野氏は供に古代氏族の和邇氏の支族だからと思われます。


野猿麻呂は下野国二荒山(日光山)の神ですが、その謂われに二系統あります。その一つは『日光山縁起』系のもので、日光の二荒山神と上野国の赤城明神が山中の湖の領有をめぐって争い、二荒山神は大蛇に、赤城明神は大百足にその身を変えて戦ったとき、勝てば山の狩場の権利をもらう約束で、小野猿麻呂は得意の弓で大百足の左目を射て、見事大百足の赤城明神を退けた、というものです。

この話には明らかに俵藤太こと藤原秀郷近江国での、三上山の百足退治が混じり込んでいます。藤原秀郷平将門を倒した人ですから、平安時代中頃の事になります。秀郷の実際は下野国に拠点を持っていたことから、縁起に取り込まれたのでしょう。

もう一つの小野猿麻呂は江戸時代の林道春による『二荒山神伝』です。かなり時代を隔てて書かれたものですが、こちらの方が真実味があります。京の殿上人であった有宇中将は勅勘をこうむり、奥州小野郷の朝日長者の客となり、長者の娘を妻として子をもうけ、その名を馬王と名付けたといいますから、これも東下りの婿入りです。馬王は侍女に手をつけて生まれた子が猿に似ていたことから猿麻呂と名付けられた。そこで二荒山神の大蛇と赤城明神の大百足の戦いとなり、敗色濃い二荒の神は鹿島の神の助言で弓の名手で力の強い猿麻呂の助けを仰いで大百足を討ったというものです。

そして、敵を討った場所を宇都宮という地名が生まれたといいますから、勝道上人が二荒山(男体山)へはじめて登頂してからでしょう。勝道の二荒山登頂は、桓武が即位し、早良が立太子した翌年のことです。

この伝承によると、猿麻呂は奥州小野郷で生まれたから小野猿麻呂と呼ばれたと
いわれます。先に触れたように征夷副将軍小野永見は陸奥介を兼任してましたから任期中は現地に滞在し、子供をもうけたかもしれません。後で触れるように、
その子孫も何人か陸奥に就いています。彼の小野小町ですら山城国愛宕郡の小野郷出身説もあれば、陸奥国で生まれたという説もあります。

宇都宮の二荒山神社の縁起『二荒山大明神縁起』では、赤城の神と争った二荒山の神を助けたのは、真言陀羅尼の頭に付ける言葉の<温左郎麿(おんさろま)>という名になっています。五来重によると、この<温左郎麿>から語呂合わせで小野猿麻呂に転化したといいます(『山の宗教』角川選書)。真言は言うまでもなく紀州高野山真言宗のそれで、後に真言宗を創基した弘法大師空海が勝道上人の事績を碑文に書いています。

とは言え、<温左郎麿>を<小野猿麻呂>と言い換えたのは小野氏の誰かであろうと推測できます。そのとき<猿麻呂>は何故<猿>だったのかと考えると、畿内の小野氏が猿女貢進に関わっていたことと無関係ではないと思われます。

猿女は神事において鎮魂の儀に奉仕する特殊な女性で、猿女氏が世襲的に貢上していました。ところが、その猿女の養田が近江国和邇村と山城国小野郷にあり、
和邇部氏と小野氏は本来猿女を貢ぐ氏でないのに、養田を喰って猿女を貢いでいるのを廃し、以後は猿女氏の女一人を貢ぐように命じたとい事が『類聚三代格』の弘仁四年(813)の記事にあります。弘仁四年は桓武の没後七年ですから、それまでの一時期は和邇部と小野の両氏は猿女を貢いでいたのです。

山城国小野郷が愛宕郡の小野郷であるとすれば、そこから八瀬を通って北上し、比叡山を越えて近江国和邇村に通じています。和邇川のほとりにあるのが名神大社で小野神社の本社です。しかも、比叡山日吉神社が元から祀る祭神は東本宮の大山咋神玉依姫神ですが、西本宮は天智天皇が近江へ遷都したとき大和国三輪山から勧請した大物主神が祀られています。小野氏や和邇部氏の元の和邇氏の本拠は三輪山の麓にあり、近江や山城への進出は三輪山大物主神勧請と無関係ではないでしょう

そして猿女氏といえば、天照大神が岩戸隠れしたとき活躍した天宇受売命を祖とする一族で、そこから出た稗田阿礼が『古事記』を口誦したことで知られています。稗田氏の本拠は大和郡山市稗田といわれますから、和邇氏の本拠から至近距離にあります。<温左郎麿>を<小野猿麻呂>と言い換えた形跡は、こんな小野氏と<猿>との関係から推測できます。ついでに言えば、比叡山の神使は<猿>とされます。


ところで、柳田国男は「稗田阿礼」で猿女や小野氏が地方へ流れて行き、各地の神社の神主などに就いたことを指摘しました。二荒山は先に触れたように勝道上人によって開かれたのですが、その神職は小野氏が就いていました。この小野氏を太田亮の『姓氏家系大事典』は毛野氏の族ならんか、としています。上野・下野の両国に分かれる以前に毛野国を開いたのが毛野氏です。宇都宮市の方の二荒山神社では毛野氏の祖とされる豊城入彦を祭神としていますから、毛野氏から出たのかもしれません。小野氏は両社の神職に就いていました。

この小野氏は上野国に流された小野金善の子孫ではないかと思うのですが、単なる憶測に過ぎません。それより、勝道上人が二荒山へ登る以前、誰かが登頂したらしく、山頂の祭儀遺跡から弥生時代の鉄鐸が出土しています。信州の諏訪神社や小野神社に遺された鉄鐸「さなぎの鈴」と同じものです。それが小野神社にも遺されたことの偶然は、もっと大昔から小野の氏人は流れ出て行ったのでしょうか。