02 流人小野金善

武蔵国の北方に毛国があります。上下に分かれて上野国(群馬県)と下野国(栃木県)に分かれました。東山道(中山道)の碓氷峠を越えて阪東に入ると、最初の国が上野国です。
上野国府の前橋の北二十粁ほどの処の吾妻川沿いに、小野上村と呼ばれた地があります(今年二月に合併して渋川市)。江戸時代までは小野郷といわれていました。

ここに上野三碑ほど有名ではありませんが、仁治の碑と呼ばれる巨大な緑石板碑があります。仁治四年(1243)に建てられたもので、刻まれた二十数名の建立者の名前の中に壬生・藤原氏に混ざって三人の「小野」の名前があります。他に同族の大宅・春日氏の名も見えます。


この仁治の碑が建てられたのは鎌倉四代将軍の時代ですが、そこから翻ること二百数十年前、この地に都で罪を得た小野金善という人が流されてきました。大和国平城京から山城国長岡京へ遷都した桓武天皇の時代です。

桓武の即位したとき、同母弟の早良親王が皇太子に立てられたのですが、早良の即位をめざして結集した一味が、桓武の大和行幸の間、造長岡京使として留守を守っていた藤原種継を暗殺してクーデター謀ったのです。主謀者は歌人で『万葉集』の編者として知られる大伴家持で、一味は早良の皇太宮庁の構成員であったため、早良も囚われ、淡路へ流される途中、自ら十日間絶食して壮絶な死を遂げた疑獄事件でした。

上野国流罪になった小野金善はこのクーデターの一味だったと伝えられています。しかし、事件の記録には大伴一族はじめ佐伯や紀氏の名があっても、小野の氏人が関わったという記録もありません。金善の名は小野氏系図などにも出てきません。しかし、その可能性はあります。

桓武の政策には遷都による造都と蝦夷討伐の軍事行動が特徴です。七十年間にわたった平城京を棄てた長岡京遷都には、反対勢力があっても当然です。とりわけ、桓武・早良兄弟の父光仁天皇以前は、称徳女帝と法皇道鏡を頂点とする仏教政治が続いてきたことから、東大寺ををはじめとする仏教が長岡京遷都に批判的でした。

しかも、早良は東大寺の僧籍にあり、父光仁が即位してからは親王禅師として東大寺の運営に携わっていたことから、必然的に遷都に批判的な勢力に期待されていたのです。小野氏の場合は時代が隔たった平城京造都の和銅元年、造平城京司次官を二人も出していました。

この事件の後、桓武実弟早良の死に強い贖罪意識を抱き、早良の怨霊に悩まされ、代わりに皇太子に立てた自分の息子の平城の病気の際には、淡路の墓所へ謝使を派遣し、さらに事件から十五年後には早良に対して祟道天皇の号を追称したのです。そして、桓武の死後、約六十年を経て、朝廷は政変に関わって非業の死を遂げた人々と供に、祟道天皇を祀る御霊神社を創建しました。


ところが、もう一つ、祟道天皇一人を祀る祟道神社といものが平城京の北東、若狭街道が八瀬に入る直前にあります。京都市左京区上高野、かつて山城国愛宕郡小野郷といわれた地です。摂社として小野神社があり、付近から小野妹子の子とされる小野毛人墓誌が出土しています。明らかに小野氏の居住した地であり、小野郷の鎮守に祟道天皇を祀ったものと推定できます。

そして、小野金善はクーデター一味に連座して上野国流罪になったのでしょう。
しかし金善はクーデターに関わるだけあって強かな男でしたから、ただの流人で終らなかったのです。桓武のもう一つの政策、蝦夷討伐に小野金善も従軍したのです。

桓武の遷都と出兵という二つの内・外政策は巧妙に関わりがありました。早良の皇太宮庁長官であった大伴家持を持節征東将軍に補任して、早良から引き離したのです。家持の死はクーデター決行の直前だったのですが、その死地は畿内とも陸奥国とも言われます。

クーデターや早良・家持の死から数年後、陸奥国蝦夷阿弖流為(あてるい)に征東将軍紀古佐美が敗れると、桓武征夷大将軍坂上田村麻呂に四万の兵をつけて動員し、ようやく阿弖流為を投降させました。このとき阪東は蝦夷戦の兵站基地として、物資や兵員の補充にあた。


流人の小野金善は東山道を北上してきた田村麻呂の征夷軍に加わったのです。同族の小野永見が征夷副将軍兼陸奥介だったことが、金善の従軍を容易にしたのでしょう。

後年、金善は吾妻郡の郡司にまでなったと伝えます。金善が流された地に、渋川市川島から延喜式内社で上野国大社四ノ宮とされる甲波宿禰(かわすくね)神社からの分祠があります。小野子山には烏子稲荷(すないごいなり)の狐と金善の妻との間に生まれた八人の子供の伝承があり、山麓の金善寺には金善夫婦の菩提寺といわれます。

流人小野金善がそこまで成ったのは蝦夷戦の戦功ばかりでなく、怨霊に苦しめられた桓武は死の床で、遂に早良親王事件に連座した者の復位を認めたからでした。