01 横山党小野氏

多摩の横山

武蔵七党武士団横山党の名は、多摩川下流域の南岸に連なる丘陵地帯が<多摩の横山>と呼ばれた地域に居住していたことに由来します。武蔵国衙のあった府中の多摩川対岸にあたる関戸のあたりから、八王子・淺川あたりまでが<多摩の横山>といわれました。このように横山党の横山氏にかぎらず、発生期の武士団はおおむね彼にが領した土地の地名を名乗りとしていて、その土地所有へのこだわりを表わしています。

ところが一方で、地名による名乗りとは別に、その系譜から由来する本姓を持っていて、横山氏の場合は<小野>を本姓としていました。小野氏系図や武蔵七党系図によると、その先祖は畿内大和国や山城・近江国の古代氏族であった小野氏ということになっています。聖徳太子が派遣した遣隋使の小野妹子や、平安朝初期の書家として知られる小野篁などがこの小野一族から出ています。絶世の美女小野小町も同様です。系図によると、多摩の横山氏はその子孫だというわけです。

だから系図は当てにならない、というのが専門家ばかりでなく、世間一般の常識でしょう。しかし、そう言って切り捨ててしまっては、京都からみれば辺鄙な片田舎に過ぎない武蔵国の武士がどうして貴族の子孫を名乗れたか、その理由は問われないままになってしまいます。

歴然とした偽系図そのものは否定されるべきでしょうが、積極的な反証もないまま、田舎者が貴族の子孫を名乗るなど信じ難い、と言った類の否定説こそ廃されるべきでしょう。こうした説は心情的に過ぎないというよりも、ある種の暗黙の前提から出ている考え方だからです。

この場合の暗黙の前提とは、系図の多くが男系をたどって書かれていることからくる一種の思い込みが前提になっています。つまり、一族あるいは一家の系譜は男系の連続である、という思い込みです。男は他家から嫁を取って子孫をのこし、女は生家を出て他家へ嫁にいくという前提によって男系系譜が成立します。


ところが、男が他家の女を訪れて子供をもうけ、相手の女は生まれた子供を自分の家で育てるとしたら、その生活も系譜も母系が基本になります。これは男の側から見れば妻問婚であり、女の側からすれば婿を取る招婿婚です。

古代はこうした母系社会であった、と膨大な実例を挙げて実証したものが高群逸枝の『母系制の研究』と『招婿婚の研究』でした。妻問婚あるいは招婿婚が成立するのは、男の家の方が女の家より社会的に優位な立場にあることが前提のようです。その結果、男の家あるいは一族は女の家を同族化し、ますます社会的に優位となります。女の家は男の家に抱え込まれる代わりに、生まれた子供は社会的に優位な男の家の恩恵を被ることができる。この古代の母系社会がもたらしたものこそ、巨大な氏族としての物部氏蘇我氏だった、というのが高群の説いた母系制の骨子です。

こうした母系制が嫁取りによる実質的な男系制に変ったのは、およそ鎌倉時代末期から室町時代にかけての時期とされますから、武蔵七党などの武士団が生まれる時や成長期には未だ母系制が生き延びていた時代でした。


つまり、元来は無縁だった畿内の小野氏と武蔵国の横山氏が存在し、京男の東下りによって都鄙に橋渡しをして両者を縁付けた男がいたのです。

東下りといえば小野小町とも浮名を流した在原業平などが有名ですが、業平の場合は恋路の果てという特殊な例で、一般には二つの形があります。

一つは、国司などの役目を担って地歩へ赴任し、そこで妻問した女に子供生ませ、任期を終えると女子供おいて帰京した後、成人した子供を引き立てる。あるいは任期を終えても帰京せずに女子供と供に現地へ土着してしまう。この場合は女の家へ婿入りする形になります。

もう一つは、都で罪を犯して地方へ配流されてしまう場合です。配流されるほどの者は死一等を減じられた重罪とはいえ、配流先では比較的自由な行動が許されていたので、女の家へ忍んで行くこともできました。

さて小野氏の場合、流人として阪東へ流された者もいれば、国司として武蔵国を支配した者もいました。横山党へつながるのは後者が濃厚なのですが、前者の流人の小野氏も間接的ながら横山党と関わってきます。

武蔵七党系図