はじめまして

HPでは阪東の歴史をあつかってますが、ここではさらに絞って、平安朝末期から鎌倉初期のはじめに誕生した<武蔵野>の古武士を追っかけようと思います。<武蔵野>といえば、明治の国木田独歩の『武蔵野』、昭和の大岡昇平の『武蔵野夫人』(新潮文庫)、あるいは三浦朱門の『武蔵野ものがたり』(集英社新書)などに、その風景の特徴としてというより象徴的なものとして、いずれも<雑木林>が欠かせないものとして有ります。

しかし武蔵野の、そう言ってよければ原風景に<雑木林>は有ったのだろうか、と思わざるを得ません。

「葦・萩ばかり高く伸びて、馬に乗った人の持った弓の先が見えないほど草が高く生い茂って」とは、丁度そのころ父に引かれて武蔵野を歩いた少女が後年『更科日記』に記した武蔵野の風景でした。

生い茂る草原にくわえて、赤土の砂塵が舞い上がる荒野、それが武蔵野の原風景ではなかったかと想像されます。武蔵野の古武士とは、そんな風景を背負って生まれたと思われるのです。

ところで<武士>と言えば、近頃は明治になって士分身分が廃止されてから書かれた<武士道>論が流行りのようですが、ここにはそういうものは有りません。<古武士>が今日的であるとすれば、その<自力救済>能力にあります。今時の流行り言葉に言い換えれば<自己救済>と言うことになろうかと思われますが、それを保証したものこそ、彼等が<武士>と呼ばれた根拠としての<武力>に違いないのです。

そんな古武士たちはどのようにして生まれたのか、武蔵七党武士団のうちの一つである<横山党>を中心に、試行錯誤を繰り返しながら追っかけることになるでしょう。