27 比企の乱

頼朝の没した後の将軍職を継いだのは頼朝の嫡男で十八歳の頼家でした。
頼朝を生んだのは頼朝の正妻の北条政子ですが、頼朝の乳母だった比企尼以来の嘉例を理由に産屋からして比企氏の館があてられ、頼家が生まれると直ぐに乳母となった比企氏の娘たちに取り上げられてしまったのです。

比企氏の娘にはそれぞれ比企能員・安達藤九郎盛長・河越重頼らが婿となり、流人時代の頼朝の生活を支えてきたという実績をもって頼家の乳母夫になっていました。さらに能員の娘は頼家の子一万を生んだ若狭局でしたから、頼家は比企氏の若君のごとき状態だったのです。

乳母(夫)と養君の関係は実の親子に匹敵する関係にありました。比企尼の娘婿たちが二十年にわたる頼朝の流人生活を援助してきたことが、それをよく物語っています。

頼家の乳母夫は他に梶原景時と武蔵守の平賀義信もいました。しかし、景時は頼家の代になって間もなく追放のうえ誅殺され、河越重頼義経の舅ということで既に亡き者になっていました。

もう一人の乳母夫の平賀義信の後妻も比企氏の娘ですが、先夫の伊東祐清が戦死した後で再婚し、平賀朝雅をもうけていました。この朝雅は元服して北条氏の娘を妻に迎えたことから、生母の出た比企氏から離反し、後に触れるように比企氏を族滅させるために積極的に戦います。


そんなことから比企氏は将軍頼家の乳母夫といえども、幕府内で強力な権力を確立できたわけでは有りません。その端的なあらわれが頼家が後継者になると幕府は直ちに将軍の専制政治を廃止して、宿老十人の合議制になりました。梶原景時もその一員だったのですが、頼朝と一身同体となってその専制を支えてきた景時を将軍頼家がかばい切れなかったのも、この合議制に変わったからだといえます。

景時追放の理由は、頼家を廃して弟の千万(後の実朝)を擁立しようとしているというものだったのですが、頼家の乳母夫の一人だった景時にそんな陰謀はあるはずも無かったのです。宿老十人の合議制といっても、そこには微妙な内部対立があったからです。

とりわけ頼家の乳母夫になれなかった北条氏は、十年後に千万が生まれるとさっそく政子の妹の保子、通称阿波局を乳母に送り込みました。実は景時追放の火付け役になったのも阿波局でした。千万を擁して何事かを画策していたのは北条氏だったのです。頼家の代になって二年目には政子の父の北条時政従五位下遠江守に叙任され、源家一門以外の御家人では初の国司に就き、それまでは頼朝の舅でしかなかった地位からにわかに台頭してきていました。

阿波局の夫は頼朝の異母弟で義経の実兄今若、阿野全成です。洛外醍醐寺に入れられていたのですが、兄頼朝の挙兵を聴いて寺を抜け出して下総鷲沼の頼朝の陣を訪れました。僧籍にあったことから武蔵国多摩川の向かいの丘にある、源家重代の祈祷寺である長尾山威光寺(現妙楽寺 )の僧坊と寺領を復興して与えられていました。

そこは平治の乱後、源氏の衰退とともに源氏所縁の寺領も没収されて横山党小山有高の所領となっていたらしく、文治元年(1185)頼朝が再興した寺領を有高が横領したと訴えられ、有高はその返付と押妨停止を命じられた土地です。

横山党や小野氏系図には小山有高の名は無いのですが、小倉經孝の子に菅生有孝、小山經隆の子に菅生有隆がありますから、小山有高は菅生有隆を指すものと思われます。というのも、有高の菅生の地は威光寺の隣に位置するからです。しかも、有高の父經隆は彼の源氏の愛甲荘を襲った横山隆兼の末子でした。

さらに言えば、隆兼の娘が秩父重弘の妻となって生まれたのが、小山氏の館近くに進出した小山田有重で、その子の稲毛三郎重成の構えた桝形城も威光寺の隣に位置します。そして、重成の妻も北条氏の娘でした。

義経や範頼はじめ源氏一門が次々に粛正されてきたなか、阿野全成は用心深く冷静に保身をはかってきました。しかし頼家が将軍職を継いで三年目、にわかに重病に襲われた頼家は、その焦りからか、千万を擁して何事かを画策する北条氏に対して攻撃を仕掛けました。槍玉に挙げられたのが威光寺の全成です。謀叛の疑いで幕府に召還して捕らえ、下野国八田知家に預けられ、一月後に誅殺されました。


翌年八月末、頼家が危篤に陥ると幕府は相続について相談し、東国二十八国の地頭職と惣守護職を頼家の子一万に、西国三十八国の地頭職を千万に分与することを決定しました。頼家は出家して跡を一万に譲り、療養のため御所から大江広元邸へ移ったのです。

ところが、一万の外祖父比企能員はこれを不満として、頼家と計って千万とその外戚の北条氏を討つべく軍兵を集めた、というのが北条氏の『吾妻鏡』の主張です。

しかし、頼家が没すれば嫡子の一万が跡継ぎになることは分かり切ったことで、比企能員は楽観していたようです。将軍家の病気平癒祈願のために薬師仏供養を行いたいという北条氏の招きに、能員はろくに武装もせず礼装である水干を着て、数人の供を連れただけで名越の北条邸へ出向いたものでした。そして北条邸へ入るやいなや竹薮へ引き込まれ、有無を言わさず刺殺されてしまったのです。

後は北条義時をはじめ北条氏が張り巡らせた親戚一同の畠山重忠平賀朝雅三浦義村それに小山一族などの軍勢が比企氏邸を不意打ちし、二時間余の間に比企の息子や娘婿たちを殺し、若狭局と一万も炎の中に死んでいます。

頼家は危機を逃れたものの、間もなく伊豆の修善寺へ押し込めになり、一年後には北条氏の刺客に暗殺されてしまいました。頼家の跡継ぎになったのは弟の千万、京の後鳥羽上皇から「実朝」とするように命名された十二歳の若者です。

それと同時に、政所の長官である初代<執権>に北条時政が就任したことでした。