28 北条氏内訌

三代将軍実朝は京都に憧れていました。十三歳で元服すると御台所を迎えることが話題にのぼり、実朝は「都の姫君を貰いたい」と言い出したものでした。既に政子の妹が足利義兼に嫁いで生まれた実朝の従妹が候補に挙がっていたのを蹴って、注文をつけたのです。

実朝の注文を実現すべく蔭で活躍したのは執権北条時政の若い後妻の牧の方でした。平清盛の異母弟池の大納言頼盛の所領であった、駿河国駿東郡の大岡牧を現地支配した牧宗親の娘か妹といわれますが、時政が京都から連れてきた女でした。そのため牧の方は京都の人脈を使って工作した結果、公家の坊門信清の姫君を実朝の御台所に迎えることに成功しました。姫君の姉が後鳥羽上皇後宮にあがっていたので、実朝は上皇の義弟という関係になります。

このとき京都との交渉にあたったのは、比企の乱の直後に京都守護職に任命されて上洛していた平賀朝雅でした。朝雅の妻は時政と牧の方の間に生まれた嫡女です。そして、坊門家の姫君を迎えるために鎌倉から出発した一行の中には、牧の方が生んだ末子で十六歳の政範がいました。

政範は牧の方にとってただ一人の男子でしたから、行く行くは先妻の子らを押しのけて時政の跡継ぎにしたいくらいの野心を抱いていたかもしれません。ところが運悪く、この政範が上洛途中に発病し、京都の義兄朝雅の看護も虚しく客死してしまったのです。

それでも姫君は無事に鎌倉に迎えられ、牧の方は奥向きのことを自ら取仕切り、政子をはじめとする先妻の子らは手をこまねいて傍観する他ない状況でした。そして、一段落すると牧の方は京都で客死した愛息政範の復讐に取り掛かったことです。


牧の方が狙いをつけたのは時政の先妻の娘を後妻にした畠山重忠の息子重保です。重保も京の姫君を迎えに上洛した一行の一員でした。政範の死後、何が原因か宴席で重保と平賀朝雅が大喧嘩になったことがありました。朝雅の妻は牧の方の嫡女だったことから、畠山父子を逆恨みして暗殺を企んだのです。

平賀朝雅は上洛する直前、比企氏一族を族滅させたときは父平賀義信の跡を継いで武蔵守でした。そして畠山重忠武蔵国衙の在庁官人ですから、国司平賀氏との関係は対立していた可能性があります。それに加えて北条時政の先妻と後妻の婿同志という隠微な対立があったのかもしれません。いずれにしも、比企氏を倒して頂点に立った北条氏の内訌がここにはじまったのです。


武蔵国に引きこもって鎌倉へ出仕しない畠山父子を、鎌倉へ誘き出したのは従兄弟の稲毛重成です。畠山氏は秩父平氏流の嫡流ですが、庶流の重成は畠山氏を倒して嫡流の立場を狙ったのです。しかも、重成も時政の先妻の娘、政子の妹を妻にしていたのですが、頼朝の時代に先立たれて先妻の側から脱落したため、時政と後妻の牧の方の手先に使われてしまったのです。

時政から畠山父子の暗殺計画を打ち明けられた先妻の子の義時は、頼朝の時代から忠勤に励み、北条の婿でもある畠山氏を滅ぼすことに反対しました。

それでも時政は鎌倉へ一足先にやって来た重保を、三浦義村に暗殺させてしまったまです。そのうえで時政は遅れて来た畠山重忠に謀叛の意志有りとして、義村はじめ和田義盛など侍所の武者を総動員します。日頃から梶原景時などから「謀叛の疑い有り」などと嫌疑を掛けられると、重忠は「謀叛の噂なら武士の誇り」とばかりにうそぶいていたのでした。それも武蔵国随一の武力を持っていた畠山氏の吟持だったのでしょうが、この頃の武蔵国における畠山氏の統率力は弱まっいたらしく、同族の江戸氏や河越氏、それに横山・金子・児玉氏といった武蔵七党武士団も討滅軍に加わっていたことでした。四時間ほどの戦いの末、百三十余騎の重忠一行は誅殺されてしまいました。

しかし、事はそれで終らなかったのです。重忠誅殺にも加わった義時ですが、父の時政に対して、本拠へ逃げもせずに戦って滅びた畠山重忠に謀叛の意志があったとは思えない、と主張したものです。時政は返す言葉も有りません。そして義時は、事の起こりは稲毛重成の奸計にあるとして、今度は三浦義村と組んで重成一族を誅殺してしまいました。義村の娘は義時の嫡男泰時の妻でした。


数日後、北条義時は将軍実朝を政子の手元へ迎えいれ、周囲を固めたうえで時政夫妻に厳しく迫ったことでした。牧の方は将軍実朝を亡きものにし、娘婿の平賀朝雅を将軍に立て様としている、と。時政が息子の言い様に立腹して兵を集めようとしたものの、時既に遅く、昨日まで時政の言いなりだった御家人たちは皆義時の館に行ってしまい、誰一人命令に従う者はいなかったのです。

万策尽きた時政は出家し、牧の方と伊豆へ蟄居する他なかったのです。鎌倉の頂点へ登り詰めた瞬間に転げ落ちた北条時政の姿でした。義時は時をおかず京へ使いを奔らせ、在京の御家人によって平賀朝雅を討ち果たしたことでした。また、牧の方の娘を正室としていた下野国の宇都宮頼綱にも謀叛の噂があがり、鎌倉へ出仕して弁明に努めたものの出家する破目に陥りました。

そして義時は相模守と執権の立場を手に入れ、武蔵守には弟の時房を就けたことでした。北条氏の内訌は先妻の子らの完璧な勝利に帰したのです。元久二年(1205)六月のことでした。