一所懸命と一所不在

土地を開墾して農地とした開拓者は、その土地を領主として一所懸命に死守するため武力を持った武士に成りました。しかし、自力の武力だけでは足りず、その土地を社寺や公家貴族に荘園として寄進し、荘司の身分を獲得して法的に権利を主張したり、それでも間に合わなくなったとき、持ち前の武力による発起叛乱して武士政権を樹立したのが鎌倉幕府でした。

彼等が如何にその領地にこだわったかは、一所懸命の地銘を自らの名乗りとしたことに如実に現われています。しかも、その地銘を家名とし、領地と家名を子々孫々へ伝えていくことに腐心したのです。

鎌倉、室町、江戸時代と続いた武家政権封建制度の時代といわれます。武力を持って政権を維持した時代とは、その見返りとして領主が家臣に封土を給与した時代でした。武士の名誉だの家名などは何よりも土地があってのことでした。一所懸命の土地に縛られていたのです。


鎌倉御家人とは、彼等領主と鎌倉将軍との間に個人的な主従関係を結び、所領安堵と引替えに将軍に対して武力や労役で奉仕する武士でした。ですから、不運に見舞われて所領を没収されてしまうこともあり、所領の足りない無足の御家人になってしまいます。それがさらに進めば家屋敷の建つ本領さえ失って御家人でなくなってしまう。

所領を失った武士は武士でなくなるか、あるいは悪党になる他ないのです。前者の典型的な姿は、武士の出家であり時には遁世という生き方です。武士の出家には所領を失ったという理由ばかりでなく、武士として殺生を重ねてきて、往生際にその罪を恥じ、無常を感じて、家督を子孫に譲って出家した者も少なくないのです。

鎌倉新仏教の開始を告げたころ出現した法然や重源・栄西らはそろって武士の出身でした。その極め付けが伊予の海賊河野氏から出た一遍です。そして、一遍が率いた時衆たちは、武士がその存在の信条とした一所懸命に対抗するかのように一所不在の遍歴・漂白の徒でした。また、所領を失って悪党となった者たちが倒幕の一翼を担ったのも必然の結果だったといえます。


ところで、阪東武士の源流を狩猟時代のそれに求める説が根強くあります。軍事訓練を兼ねて年中行事のごとく開催された巻狩りなどの伝統に、それを見出すことができないわけではありません。とりわけ騎射を主な戦闘方法とした武士の姿に、狩猟時代に獲物を追った猟人の姿が重なります。

騎射という戦闘技術が同じものであっても、猟人と武士のそれでは土地に対する信条に飛躍した隔たりがあります。武士がその発生からして持った、持たざるを得なかった一所懸命の信条や観念と、狩猟時代の猟人のそれとは必ずしも重なりません。

猟人は家をもたなかったとは言えないまでも、特定の土地を所有していては獲物を追うことはできません。つまり、定住する必要がなかった一所不在が狩猟時代の姿です。

そして未だに一所懸命の土地信仰から離れられない現代人がいます。