□ 忠臣と朝敵

赤穂の浪人たちが吉良邸に打ち入った事件は、幕藩国家が抱え込んだ内部矛盾を露呈させた。浪人たちが旧主の仇討をしたことは、幕府が奨励する忠孝一体の実践てあった。しかし、徒党を組んで武力で押し入ることは許されていない。

幕府の裁判所にあたる評定所では喧嘩両成敗を主張し、浪士助命の意見が多かったものの、将軍綱吉と側用人から出世した老中格柳沢吉保は初めから許すつもりがなかった。そこで吉保に仕える若き儒者荻生徂徠が鮮やかに示した提議を採用して処分した。私の復讐を公の法は許す訳にはいかないと。

幕府の処置はそれで済まされたものの、世間の評判は事件直後から思わぬ方向へ展開した。吉良家は足利一族の名門であったが、江戸時代の吉良家は足利将軍家名跡をつたえる唯一の家柄であった。その吉良氏へ復讐を果たした大石内蔵助は、足利将軍に「七生」まで、つまり永遠に生まれ変わって復讐を誓って自刃したという『太平記』の「忠臣」楠正成を連想させてしまった。

正成は名もなき「あやしき民」であり「悪党」である。基本的に源氏と平氏天皇に仕える武臣の戦いにあっては、天皇−将軍−藩主−家臣という序列に「悪党」楠正成は含まれていない。それにもかかわらず楠正成が「忠臣」として後醍醐天皇の近くに仕えることは、武臣の名分論的な序列を無化するものだ。

楠正成が「忠臣」として発見したのは水戸光圀が長崎から招聘した朱舜水である。そして正成が自刃した湊川に光圀によっ「鳴呼忠臣楠子之墓」が建てられたのは、大石内蔵助らが吉良邸に打ち入る十年前のことであった。

光圀はその二十年前から彰考館を創建して『大日本史』を編纂する修史事業に精出していた。徳川御三家の一角にある水戸家として、修史事業も家康以来の野望であった、徳川政権を正統化の一環である。
修史編纂に際して光圀の第一の関心事は皇統の正閏にあった。とりわけ後醍醐天皇南朝を正統することで、足利尊氏の支持した北朝を否定した。というのも、南朝方として戦った新田義貞の子孫であることを、家康は吉良家から手に入れた系図に徳川家を位置づけたからだった。

そんな光圀が楠正成を「忠臣」として顕彰したとき、既に三代将軍家光の時代に出版されていた『太平記』の読み替えである『太平記評判秘伝理尽鈔』を知らなかったわけでもあるまい。同書には「尊氏亡びたりとも、また義貞天下を奪ひなん」したがって「新田とても忠臣に非ず」「義貞、まずもって朝敵」と決めつけていたことだった。

徳川幕藩体制はこうして危い両極を抱え込んでしまった。