□ 孝行と家族国家
朱子学によって徳川政権の正統化を託されたのは林羅山であったが、彼は結果として博識を披歴しても本来の任を果たせなかった。というのも、儒教や朱子学を生んだ中国、当時の帝国明が清国の台頭によって滅亡してしまったことによる。朱子学によって徳川政権を正統化するということは、それを人類普遍の原理としてそれに習うことであったが、当のモデルが失われてしまったのだ。
林家がもたついている間に、大老として四代将軍家綱の補佐する会津藩主保科正之は京の儒学者山崎闇斎を招聘して、闇斎の神道と習合した朱子学を採用した。また、徳川一門の水戸光圀は明国から亡命した朱舜水を長崎から招聘して、後に水戸学の震源地となる彰考館を創建した。因みに、保科正之と水戸光圀の時代に早くも明治に先んじて、会津と水戸で神仏分離が実行された。
また、五代将軍となった綱吉は林家の私塾を上野忍ヶ岡から湯島へ移し、大規模な孔子廟とし、朱子学を教える拠点とした。学問好きの綱吉は自らが講師となるほど身をいれていた。
綱吉といえば世に悪名高い「生類哀れみの令」があるが、実は綱吉の母が坊主のご託宣を信じたことから、母親への忠孝ために生涯厳命した悪令である。それほどまで母親に対する忠孝に拘ったのは、何も綱吉の個人的な好みからだけではない。それも儒教・朱子学にいう親子・主従のの秩序を重んじる教えの実践に他ならなかった。令の数年前に改定された武家諸法度の第一条にも規定されたことだった。
徳川の幕藩国家とは家族社会のアナロジーであった。親に対する子の服従と奉仕を孝行として説くことによって、個人を家父長制の秩序へ組み込んでいく。この家長に率いられた家族の家は、そのまま主家の家中へスライドさせて組み込まれる。そして主家は将軍の家中の一員とされることで、幕藩国家は疑似家族国家として成立していた。
さらに、徳川将軍は天皇によって征夷大将軍に任命され、天皇に対して独占的な忠孝につとめていた。ここに天皇−将軍−藩主−家臣、という武臣の序列が出来上がっていた。こうして忠孝一体の幕藩国家は血縁や地縁といった、具体的な結びつきを超えたところで成り立った幻想の国家であった。
ところが、この綱吉の時代、幻想の国家を成り立たせた武臣の序列を無化する事件が起きたことだった。赤穂事件である。