■重発

今年の九月で手術から五年が経過した。ガン摘出手術から五年間が再発のおそれある期間とされるが、それが何事もなく経過したのだから、いよいよ「釈放」されるなと思った。

この期間に、仕事の知り合いが二人同病で手術して、一人が今年の春、手術から四年目に逝った。一年前に会ったときは心配ないくらいの元気だったのに。

手術から五年間、再発どころか、三ヶ月月毎の検査で何事もなかったことから、先日の検査の折に主治医に、いつまで検査を続ける必要があるのか聞いてみた。即座に「一生」と言われてしまった。

五年の経過で「再発」のおそれは無くなったが、今後は「重発」の可能性があるという。同じ場所や転位による「再発」と異なり、まったく別な場所に発病するもので、二度目だから「重発」というらしい。

こんな話は初めて聞いたが、言われてみれば確かに有り得ないことではない。つまり、未だ発病したことの無い人と同じくらい発病の可能性があるということだ。だから主治医はこうも付けくわえた。病院の検査だけでなく、公共機関の健康診断など、検査の機会をなるべ多くしておいた方がいいと。

一生疫病神から釈放されることはないのだと悟ったことだった。

序列をこえて

黒田俊雄の「権門体制論」とは、荒く括れば公家・武家・寺社家の三権門が天皇・法王を支える、古代の律令制以降の中世国家体制をいう。だから鎌倉幕府だけが中世権力の担い手だったという従来の通説は武士中心史観であるという。なかでも寺社家の権門は天台・真言顕教密教でなりたち中世以前の「顕密体制」が生き残っていて、いわゆる鎌倉新仏教などは微々たるものであったという。『法王と仏法』(法蔵館)

松岡正剛の千夜千冊(http://1000ya.isis.ne.jp/0777.html)などは、こういうことはこれまでに誰も言わなかったとして同書を紹介いるが、今谷明はすでに、『20世紀の歴史家たち』(刀水書房)黒田の説は戦前の皇国史観の猛者であった平泉澄の研究を「ほぼそのまま引き継いだもの」と指摘していた。さらに本郷和人は『武力による政治の誕生』(講談社選書メチエ)で「権門体制論は皇国史観の亡霊としての性格を色濃く帯びている」とするどく指摘している。

こうした『平家物語』や『太平記』による「源平交代」史観は物語が歴史を作るとい倒錯した事態をもたらし、そこではあらかじめ天皇制を頓挫させる道は絶たれている。

ところで、検索サイトで「源平交代」を検索して見ると、源氏の徳川政権を倒した幕末の維新は平氏なのか? といった疑問・質問が案外多いのに驚いた。こういう疑問・質問を発すること事態、すでに「源平交代」史観に犯されているのではないか。

天皇制を維持したのは「源平交代」によるばかりでない。武家の棟梁たる源平両氏とは異なり、天皇の「武臣」という序列の外側からもあった。例えば後醍醐天皇に仕えた楠正成に代表される悪党的武士たちである。彼らは天皇−将軍−領主−家臣といった武臣の序列をこえた「忠臣」として天皇に直接仕えたのだ。また幕末維新では脱藩浪人たちが天皇を担いで徳川政権を倒した。

おそらくここまでなら網野善彦の『異形の王権』(平凡社ライブラリー)等にいう非農業民や悪党的武士たちと天皇の関係でしかない。あるいは山口昌男の『天皇制の文化人類学』(岩波現代文庫)などにいう、いわゆる中心と周辺の相反するかに見えて親和力のある関係であろう。

兵藤裕己の『太平記<よみ>の可能性』はさらにそこから一歩進める。悪党的武士や脱藩浪人たちが序列をこえた先に見出したのは四民平等の世界である。ひとしく天皇につかえる「臣民」とされたのである。

源平交代や序列無視のいずれにあっても、この列島には天皇制をぬきにした変革などはなかったのだ。

源平交代

兵藤裕己著『平家物語の読み方』(ちくま学芸文庫)を本屋で手にしたとき、大河ドラマ平清盛」の放送直前だったから、例によって便乗本のひとつと思わなかったわけではなかった。ただ、以前に同じ著者の『太平記<よみ>の可能性』(講談社選書メチエ)を読んでいたことから、ある種の期待があった。

前著では『太平記』は『平家物語』に敷かれた歴史観に規制されて成立したという。それが<源平交代>という思想であり歴史観であった。いうまでもなく『平家物語』は平氏の没落と源氏政権成立の物語である。

吉田兼好の『徒然草』によると、比叡山延暦寺の最高位の僧である天台座主慈円に扶持した信濃前司行長によって『平家物語』は編纂された。ところが、それは慈円の著した歴史書愚管抄』によって意味づけされた源平交代史観であった。しかし、平氏や源氏の政権交替といっても、それ自体は政権の主体にはなりえない。

平家物語』の冒頭ちかく源平両氏を位置づけていう。

 昔より今に至るまで、源平両氏朝家に召しつかはれて、王化にしたがわず、をのづから朝権をかろむずる者には、互ひにいましめを加へしかば、代のみだれもなかりしに・・・・

とあって、両家はあくまでも朝家、天皇の王権秩序の回復者とされた。

平氏政権を倒した源頼朝の源氏政権は三代にして貞盛流桓武平氏を称する北条氏に奪われ、以降は慈円歴史観が神話的に作用して、現実の歴史を規制する。

鎌倉末期に起こった反北条勢力は急速に新田と足利の源氏嫡流に糾合されて鎌倉幕府は滅ぼされ、足利幕府を崩壊させた織田信長桓武平氏を自称し、そして徳川家康は新田流清和源氏を名乗るという具合に源平交代がくりかえされ、中世から近世・近代の天皇制国家を持続させるのに寄与した。

源平交代の最初、平氏を倒した源氏の頼朝に「朝家に召しつかはれ」ぬ道がなかったわけではない。平氏打倒へ蜂起した初めのころ、大挙して押し寄せた平氏軍を富士川で追い返したとき、敗走する平氏軍を追って追撃し上洛しようとする頼朝に対し、坂東の豪族たちはこぞって反対した。なかでも二万の大軍を擁する上総介広常は、朝家のことばかり気に
せず坂東にあって泰然としていればいい、と主張して上洛を思いとどまらせた。

そのころ京都では、頼朝蜂起の知らせに「あたかも将門の如し」と受取っていた。かつて将門は坂東に叛乱をおこし、坂東独立国家を目論んだ。そして、将門を倒した勝者たちでさえ再び叛乱して平忠常の乱をおこして坂東を焦土と化した。この忠常直系の子孫こそ頼朝の上洛を思いとどまらせた上総介広常である。

しかし、頼朝は広常を暗殺してまで上洛し朝家に召しつかはれ、源平交代の歴史がはじまったのであった。

ところで、こうした歴史認識を武士中心史観とする黒田俊雄の「権門体制論」があるが、兵藤裕己はこれは慈円の構想した歴史の延長上にイメージされた国家像であるとする。

また、関幸彦著『武士の誕生』(NHKブックス・講談社学術文庫)でも同じことを指摘していた

再開します

しばらくというか、大分ご無沙汰でしたが、また再開します。

この夏を越すとハラキリから丸五年経ちます。
三ヶ月ごとの検診では何も問題は出ず、近頃は食欲も旺盛で身体の回復もいたって順調です。
検診の度にX線によるCT撮影あるので、こいつの被爆の方が心配なくらいかな。(笑)


ところで、以前といっても五年前、ハラキリの直前に大庭景輝(仮称)様からコメントをいただき、「鎌倉党の家督を継ぐ大庭景能を鶴岡八幡宮俗別当に充て」たと書いた出典を問われましたが、そのままになってしまい、その後、代わりに水嶋大悟様から吾妻鏡曽我物語からとのコメントをいただいておりました。

わたしが参考にしたのは両書の他に、山本幸司著『頼朝の精神史』講談社選書メチエ143 です。これは所謂頼朝の伝記ではなく、怨霊の祟りかともいわれる頼朝の死の側面に関わる考察です。本文に書きましたが、鎌倉党の御霊社と鶴岡八幡宮の関係から大庭景能を鶴岡八幡宮俗別当に充てたであろうことを考察しています。

この春、藤沢の大庭城址と大庭神社および同族俣野氏の遊行寺へ行ってきました。遊行寺は武蔵七党横山党に関わる説経小栗判官照手姫の発祥地ですから。大庭城址周辺は、まだこんなところが在るんたな、というの田園風景でした。

□ 京都の宝暦事件

赤穂事件からおよそ半世紀後のことである。
赤穂藩浅野家の家老藤井又左衛門は大石内蔵助に次ぐ上席家老として藩主の参勤交代に御供して江戸へ出ていた時、刃傷事件が起きた。主君の補佐もできなかったことを恥じてか、赤穂にさえ帰らず出奔してしまい、知己の越中国富山藩前田家の家臣を頼り、同国小杉村に身を寄せ、藤井左門と称し、近隣の豪農の娘を娶り、その間に二男一女をもうけた。


嫡男は16歳の時、富山藩の前田民部をたより京都に出て正親町三条家に仕官し、まもなく神道家の竹内式部に入門。また地下の諸大夫藤井大和守忠義の養子となり、藤井右門と名乗った。


竹内式部は越後の医家に生まれ、17〜8歳のころ京都へ上り、大納言徳大寺実憲に近習として仕える一方、学問は松岡仲良に師事し、山崎闇斎垂加神道儒学を学び、後に仲良の師玉木葦斎の門に入る。


式部と右門は皇学所教授を務めたが、やがて式部は徳大寺家の禄を辞し、借家に塾を開く。徳大寺家へは近習格として出入りは許されていた。塾には公卿らの他に、地下官人や諸国からの門人七、八百人もいたらしい。


式部が教えたのはいわゆる四書五経儒学の他に、『日本書記』神代巻や幕末維新の志士たちの聖書になる浅見絅斉の『靖献遺言』を用いて大義名分論尊王思想であった。そして朝廷衰微の原因は、関白以下の無能にあるとして、少壮・下級公家の奮起こそ朝威回復の道であると説いた。また有志をあつめて軍学兵法や武術の実践訓練をしたともいわれる。こうした式部の講義は公家たちを元気づけた。


事が大きくなったのは、当時十七、八歳の桃園天皇は式部門下の伏原宣条に儒学講義を受けていたが、その内に式部門下の公卿たちが、御番の際に交替で天皇に『日本書記』神代巻の進講を始めるようになったことだった。


こうした式部の公家社会の序列を無視した尊王思想の鼓舞は、徳川将軍家の名分だけでなく、五摂家筆頭近衛家の名分すら否定するものであった。関白近衛内前天皇を強く諌め進講を中止させたが聴きいれられなかったことから、遂に天皇側近から式部一門の公家を免官・遠慮などの処罰によって排除し、竹内式部の処分を武家に求めて京都所司代へ告訴した。


しかし、当時の幕府側に竹内式部をまともに論駁できる人物はおらず、式部を処罰する口実が見付からず苦慮したらしいが、宝暦九年(1759)五月、口実をもうけて式部を五畿内・関東八国・東海道筋・木曽路・甲斐・近江・丹波・越後・肥前の諸国からの追放が申しわたされた。


そのとき藤井右門はひそかに京都をのがれ、変名して故郷の小杉に隠れるが、その後は富山の売薬商人に身をやつして再度諸国を巡り、勤皇の志士をひそかに募ったという。


この年、九代将軍家重の側用人岩槻藩主の大岡忠光藩医として仕えていた山縣大弐は『柳子身論』を著していた。

□ 忠臣と朝敵

赤穂の浪人たちが吉良邸に打ち入った事件は、幕藩国家が抱え込んだ内部矛盾を露呈させた。浪人たちが旧主の仇討をしたことは、幕府が奨励する忠孝一体の実践てあった。しかし、徒党を組んで武力で押し入ることは許されていない。

幕府の裁判所にあたる評定所では喧嘩両成敗を主張し、浪士助命の意見が多かったものの、将軍綱吉と側用人から出世した老中格柳沢吉保は初めから許すつもりがなかった。そこで吉保に仕える若き儒者荻生徂徠が鮮やかに示した提議を採用して処分した。私の復讐を公の法は許す訳にはいかないと。

幕府の処置はそれで済まされたものの、世間の評判は事件直後から思わぬ方向へ展開した。吉良家は足利一族の名門であったが、江戸時代の吉良家は足利将軍家名跡をつたえる唯一の家柄であった。その吉良氏へ復讐を果たした大石内蔵助は、足利将軍に「七生」まで、つまり永遠に生まれ変わって復讐を誓って自刃したという『太平記』の「忠臣」楠正成を連想させてしまった。

正成は名もなき「あやしき民」であり「悪党」である。基本的に源氏と平氏天皇に仕える武臣の戦いにあっては、天皇−将軍−藩主−家臣という序列に「悪党」楠正成は含まれていない。それにもかかわらず楠正成が「忠臣」として後醍醐天皇の近くに仕えることは、武臣の名分論的な序列を無化するものだ。

楠正成が「忠臣」として発見したのは水戸光圀が長崎から招聘した朱舜水である。そして正成が自刃した湊川に光圀によっ「鳴呼忠臣楠子之墓」が建てられたのは、大石内蔵助らが吉良邸に打ち入る十年前のことであった。

光圀はその二十年前から彰考館を創建して『大日本史』を編纂する修史事業に精出していた。徳川御三家の一角にある水戸家として、修史事業も家康以来の野望であった、徳川政権を正統化の一環である。
修史編纂に際して光圀の第一の関心事は皇統の正閏にあった。とりわけ後醍醐天皇南朝を正統することで、足利尊氏の支持した北朝を否定した。というのも、南朝方として戦った新田義貞の子孫であることを、家康は吉良家から手に入れた系図に徳川家を位置づけたからだった。

そんな光圀が楠正成を「忠臣」として顕彰したとき、既に三代将軍家光の時代に出版されていた『太平記』の読み替えである『太平記評判秘伝理尽鈔』を知らなかったわけでもあるまい。同書には「尊氏亡びたりとも、また義貞天下を奪ひなん」したがって「新田とても忠臣に非ず」「義貞、まずもって朝敵」と決めつけていたことだった。

徳川幕藩体制はこうして危い両極を抱え込んでしまった。

□ 孝行と家族国家

朱子学によって徳川政権の正統化を託されたのは林羅山であったが、彼は結果として博識を披歴しても本来の任を果たせなかった。というのも、儒教朱子学を生んだ中国、当時の帝国明が清国の台頭によって滅亡してしまったことによる。朱子学によって徳川政権を正統化するということは、それを人類普遍の原理としてそれに習うことであったが、当のモデルが失われてしまったのだ。

林家がもたついている間に、大老として四代将軍家綱の補佐する会津藩保科正之は京の儒学者山崎闇斎を招聘して、闇斎の神道と習合した朱子学を採用した。また、徳川一門の水戸光圀は明国から亡命した朱舜水を長崎から招聘して、後に水戸学の震源地となる彰考館を創建した。因みに、保科正之水戸光圀の時代に早くも明治に先んじて、会津と水戸で神仏分離が実行された。

また、五代将軍となった綱吉は林家の私塾を上野忍ヶ岡から湯島へ移し、大規模な孔子廟とし、朱子学を教える拠点とした。学問好きの綱吉は自らが講師となるほど身をいれていた。

綱吉といえば世に悪名高い「生類哀れみの令」があるが、実は綱吉の母が坊主のご託宣を信じたことから、母親への忠孝ために生涯厳命した悪令である。それほどまで母親に対する忠孝に拘ったのは、何も綱吉の個人的な好みからだけではない。それも儒教朱子学にいう親子・主従のの秩序を重んじる教えの実践に他ならなかった。令の数年前に改定された武家諸法度の第一条にも規定されたことだった。

徳川の幕藩国家とは家族社会のアナロジーであった。親に対する子の服従と奉仕を孝行として説くことによって、個人を家父長制の秩序へ組み込んでいく。この家長に率いられた家族の家は、そのまま主家の家中へスライドさせて組み込まれる。そして主家は将軍の家中の一員とされることで、幕藩国家は疑似家族国家として成立していた。

さらに、徳川将軍は天皇によって征夷大将軍に任命され、天皇に対して独占的な忠孝につとめていた。ここに天皇−将軍−藩主−家臣、という武臣の序列が出来上がっていた。こうして忠孝一体の幕藩国家は血縁や地縁といった、具体的な結びつきを超えたところで成り立った幻想の国家であった。

ところが、この綱吉の時代、幻想の国家を成り立たせた武臣の序列を無化する事件が起きたことだった。赤穂事件である。