□ 欣求浄土と天道

戦国乱世の徳川軍は「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という言葉を旗指物に書いて戦場に押し立ていた。その言葉自体は源信僧都が著した『往生要集』の冒頭から採られていて、浄土宗や浄土真宗の根底にある考え方にもなった。この世界は穢れた世であり、それを厭(いと)い離れて浄土を求めるという意味である。

松平氏時代から徳川家の菩提寺は浄土宗とされているから、浄土宗の考え方を旗指物に書いて戦場での志気を高めたといえば簡単に納得しがちだが、そんな単純なはなしではない。法然の浄土宗が「浄土」というとき、それは現世には存在しない「来世」の死後のことである。

徳川軍が「浄土」を求めて戦ったとすれば、それは死ぬためではあるまい。戦いによって「現世」に浄土を求めていたはずである。それはその言葉が法然の浄土宗以前の源信の著書から引かれたように、平安貴族が阿弥陀来迎図を発展させた造寺や造仏によって現世を「浄土」と化そうとしたのに似て、戦乱を平定すれば現世は「浄土」と化すと考えたのであろう。

事実、徳川氏が政権をとった江戸時代は、現世から戦争を否定することで自らの政権を維持した。その結果、現世は武家的な戦国の憂き世から商人的な浮き世へ変貌した。同じ仏教でも日蓮の開いた法華宗も同様に、現世の改革によって「浄土」をもたらそうとしたから歴史的に法華宗は必然的に商人たちによって維持された。しかし、鎌倉幕府日蓮を認めなかったように、徳川幕府も仏教を統治手段に利用してもそれ以上には認めなかった。


それはともかく、浄土を求めたといっても、実際は強い者が勝ちであった。勝った者が天の意志に叶う、負けた者には実力が無かったというより、天の意志に沿わなかったという、中世後半から戦国時代に流行した「天道」思想によって勝者も敗者も納得していた。その結果、戦国乱世を統一した者は自らを天の意志に叶う「神」となった。信長、秀吉、家康は同じように自らを「神」と称した。

しかし、自ら「神」を称しても、それが子孫に継承される保証は何もなかった。信長、秀吉の権力が一代で終わったのを見てきた家康は、子孫に政権が継承されるのを浴し、儒教朱子学をもって徳川政権を正統化しようとした。

□ 禅と念仏

禅者が「悟った」などと主張するは如何わしいと以前何処かで書いた気がする。禅者がそんなことを言えるのは、人間には元来から神性がある、禅宗は仏教だから人間には生まれながらに仏性があるという、まるで儒教朱子学と同じ発想によるからだ。

禅者がそんなことを言えたのは、彼らが儒教朱子学を伝えたからなのか。ともあれ儒教朱子学は何を根拠にそんなことを主張できたのか。中国で儒教朱子学を担ったのは士太夫などと呼ばれた連中で、高等文官試験のような科挙によって世に出てきた者だ。彼らはだから階級を越えて読書人や文人や政治家として活躍できから、人間には等しく神性があると考えられた。

つまり、禅者が「悟る」ということは、人間に等しく内在する神性や仏性を発見できたということらしい。

禅者の修行方法の第一は言うまでもなく座禅である。この座禅は瑜伽と元来は同じものだと言われても驚かないが、座禅と念仏は同じところから発生したと知ったときは、いささか驚いた。何しろ禅宗は自力で悟り、専修念仏の浄土宗などは他力によって成仏できるというのが相場だからだ。

宗教は現実に対する不満や不安から生まれる。現実に満足していたなら、それに拠って生きられる。しかし、現実に満足していなかったら、現実とは異なる次元に拠り所求める他ない。その異次元とは現実に対立した来世、死後の世界に他ならない。宗教が現実とは異なる幻想に他ならないことはここにあるといえる。

過酷な現実を生きなければならなかった古代インドに生まれた仏教は、死後に生まれ変わって幸福になれると輪廻説によって説明した。インドの現実の中で成仏は無限の彼方にある。

このインド仏教が中国へ渡ると、現世主義の中国では、無限の輪廻を断ち切るために禅宗浄土教が生まれた。というより、インテリには座禅を、大衆には念仏を勧めた。浄土教は念仏に努めれば死んだら必ず極楽浄土に生まれて成仏できると教え、禅宗は座禅によって現世で成仏できるとした。神や仏を自分の中におくか、他所におくかの違いで、いずれも神や仏という超越者をもってくる。

自分の中に神や仏を見出そうとする禅宗が、ひたすら座禅によって成仏しようとするのは、その超越者は現実には無、存在しないからだ。

また、浄土教における超越者の阿弥陀仏は、親鸞のいうことによると方便に過ぎない。南無阿弥陀仏と念仏を唱えても、それが主体として存在するわけではない。念仏を唱えて自然に到達すれば、この世が違って見えてくる。それが浄土に他ならない、という。

これは一つの解釈として考えられるというわけではなく、実際に江戸時代初め亡国の明から招かれた臨済宗隠元隆蒅禅師によって伝えられた黄檗派は、明朝風の禅と念仏が一体化した念仏禅であった。立てば念仏、座れば禅というわけだ。

ところで、この黄檗宗から天下の偽書先代旧事本紀大成経』を著したとも、宣伝役をしたともいわれる怪僧潮音道海が出た。江戸時代は禅宗も含めた仏教が否定されて儒教の後身である朱子学徳川幕府に採用され、中世の神仏習合から神儒習合となった。そんな世にあって同書は神道儒学・仏教の三教調和を主張した。僧潮音道海が三教調和の『大成経』に関わったのは、黄檗宗が禅と念仏を同時に採用していたことと無関係ではないのではないか。

それにしても、徳川幕府にとって何故の儒教朱子学であったのか。

■ハラキリ

切腹は武士の自死の仕方であった。
二本差しの太刀は攻撃もしくは防御用であったが、小刀は自死の道具とされた。
それにしても武士は何故に自死の仕方を切腹に求めたのか。


今年の春頃から身体がやたらと疲れやすくなった。何をやっていても長続きせず、直ぐに横になりたくなる。食欲も少なくなり、たまに会う人から、少し痩せたのではないかなどと言われるようになった。梅雨時頃から偶に食べたものをもどしてしまうことがあった。

長く続けられるのは車の運転ぐらいだったから、お盆には片道二百粁近い距離を五時間かけて走って実家へ行ったのはいいが、そこでご馳走になった海鮮料理をまたもどしてしまった。そこで漢方医でもある義姉から初めて鍼を打ってもらって何とか落ち着いたものの、帰宅したら必ず病院の精密検査を受けるように厳重に言い渡されてしまった。

日頃から健康診断もろくにうけていなかったから、こんな際だからと覚悟して近所の病院の消化器内科を受診した。直ぐにヴアリュウムを飲まされて内視鏡検査を受けた結果、食道癌ですから直ぐ手術する必要があります、とあっさり宣告されてしまった。ヘビースモーカーでもあったから、犯られるなら肺だろうと思っていただけに、食道とは意外だった。

但し、当病院では食道の手術はできないので系列の大学病院を紹介してもいいと消化器内科の先生はおっしゃる。だが、翌日、翌々日と検査はまだ続き、CT検査、エコー検査の結果、患部は食道から胃にたっしていることが判明し、結局病名は食道・胃接合部癌ということになった。内視鏡検査でそれが分からなかったのは、食道から胃へ内視鏡が通らないほど食道が狭くなっていたかららしい。

食道だけでなく胃もやられていたことが分かると、当病院の外科でも胃から食道へ手をのばす手術ができるということだった。事のついでにたずねてみた。胃を切除したら、その後どうなるのか。食道に小腸を直結すれば、栄養は小腸から摂るから問題ないという。

問題は、下世話なことだが、手術を当病院と大学病院のどちらで受けるか自分で決めて下さい、と言われてしまったことだ。しかも、既に連絡されていたらしく、その日のうちに大学病院の消化器外科から直接電話があって、ベットと手術チームの空きがあるので、今日中に返事があれば引き受けるという。大学病院へ行くには電車とバスを乗り継いで一時間かかるが、検査を受けた近所の病院なら専用バスで十分で行ける。手術はともかく、退院後の通院を考えると近くに越したことはない。

しかし、そんなことは取り越し苦労というか、まずは手術が成功するか否かが問題ではないかということで、家族会議の結果、大学病院へ入院と手術をお願いすることにして、翌日には手続きをとった。再度数日の精密検査の結果、手術に先立って主治医から言い渡されたことは、開複してみて転移がひどかった場合、患部の切除はせず直ぐに閉じてしまうということだった。

数時間の手術の後、麻酔から覚める間に、掌のひらにのるほどの切除した患部を前に、家族は主治医から肉眼で確認できる範囲は切り取ったと説明されたという。食道の一部と胃の半分ほど切除したらしい。手術後、数日ICUに缶詰にされながら、それでもリハビリの名目で、身体から数本の管をぶらさげながら三十米ほど先のトイレには看護師さんの手を借りながら歩かされた。

病棟へ戻されて風呂へ入ると真っ先に手術痕を鏡に写して確認した。手術に先立って署名した同意書の、治療欄にあった左開胸開腹の事務的な文字の具体性は、左胸の脇腹から斜めにヘソ上の腹まで長さ三十糎、丁度袈裟懸けにハラキリされ、数えてみたら綺麗に二十針並んでいた。

一ヶ月余の入院生活は、簡単にヘビースモーカーから卒業させてくれたが、一回の食事の量は人並みの半分も食べれない。手術から三ヶ月経た今週から体力もついたということで抗癌剤の投与もはじまった。ということは、やはり転移の可能性が全くないとはいえないということなのだ。こうなってみると、誰しも漠然と考えるだろうことを、具体的に自分の寿命と向き合わざるを得なくなる。


鎌倉時代以来、武士の多くは禅についた。生死を超越した境地を得ようとしたとき、武士には自ずから禅宗が似合っていたのだろう。そして武士は禅僧から死に臨んで辞世をつくることを学んだ。しかし、彼の『徒然草』の作者にいわせると、そうした武士の死は仰々しすぎる、死ぬときは何もいわず、静に終るのが自然である、ということになるのだが。。。

■差別された武士の果て

中世は被差別民を数多く生み出した時代です。いわゆる「道の者」といわれた「一処不在」の芸能者や諸職の職人たちですが、武芸をこととする初期の武士もその例外ではありません。この場合、武士の武芸とは殺人の業でしたから、死罪に匹敵する罪でも一等減じて遠島で済ませた平安時代には、武士の武芸は貴族たちに利用されても本音では忌み嫌われたのです。先に触れた、武士の暴力性は現代の広域暴力団に例える研究者たちは、こうした平安貴族から差別された武士の姿は目に入らないようです。


武士が被差別から脱することが出来たのは、他の被差別民が「一処不在」であったの対して、「一所懸命」の土地にしがみついたことによるでしょう。


しかし、人殺しが本業とはいえ、そこに罪業意識が生まれないわけがありません。とりわけ平安中期以後に浄土思想によってひろがった死後の極楽往生と堕地獄の教えは、晩年の武士の中には罪を悔いて出家する者を多く出しています。それは言い換えると「一所懸命」の地から「一処不在」へ出ていったと見なせます。


先日、古い雑誌類を処分しようと見ていたら、この被差別の対象としての武士に触れたものがありました。文化系の歴史学者の村井康彦の短いエッセイです。晩年に悔いて出家する武士はいいとしても、現に殺人の業を発揮せねばならない武士はどうしたか、という切実な場面があります。『保元物語』のなかで伊豆大島へ流された源為朝がいうには、人の命を絶つこと数知れずとも、道理に合わない殺人はしなかった、と殺人をも合理化していったのです。(「蔑視された武者たち」雄山閣出版『歴史公論』1980/6)


これが群雄が割拠の戦国時代の武士になると、もっと乾いた合理的な殺人の理屈をもちだ出しますす。


実力あるものが弱い者を倒して栄える時代とはいえ、その後ろめたさを正当化するため、天の意にかなった者が器量のない者にかわって王になる、という考え方です。それは天皇も幕府も超えた天の意志によるものと解釈した。その果てに、信長・秀吉・家康などが自ら神であるなどとのたもうたのでした。そして、逆に弱くて破局を迎えた者は、それも天の意志として観念する他ないと考えたのです。


そこには鎌倉武士のようなナイーブさは微塵もありません。何しろ出家したはずの信玄や謙信ですら、僧体姿の鎧兜で戦場で戦ったのですから。

それが下克上の理屈であるとすば、戦国時代はいつまで終りません。戦国の覇者となった徳川氏でさえ、いつ下克上で覆されるか分かりませんから、それをなだめるのにヤッキとならなければなせなかった。

■秋刀魚と日本刀

今年は秋刀魚の大漁とかで度々食卓にのった。焼いた秋刀魚に大根おろしもいいが、生きの良いのが手に入ると、家人が出刃包丁で手を掛けて刺身にさばいてくれた。三枚におろしてから青い皮をはぐという作業だ。
そんな技を何処で覚えたのかと聞くと、若いとき一ヶ月だけ通った料理教室でだという。出刃と刺身包丁もそのとき買わされたと。でも、近頃は切れなくなったという。出刃包丁を見たら刃こぼれしていて、これでは切れるわけない。

そこで久しぶりに研ぎ屋を引き受けた。
若いときの木工実習でさんざん鑿や鉋の刃研ぎをやられたから、研ぎ屋の心得はある。
中研の砥石を水に浸して、出刃の刃こぼれを取り、刃全体を研ぎあげた。

ついでに刺身包丁も研ぐことにしたが、刃渡りが出刃の倍、20センチはある。この全体を均一に研ぐのはかなりやっかいだ。長い刺身包丁を研ぎながら、日本刀の研ぎ師は大変だろうなと思った。


いわゆる新刀の刃引きしたものを一度だけ抜かせてもらい、振り回したことがある。
竣工なったビルのオーナーが新築祝いに贈られたものだ。
真新しい白鞘におさまったものだった。鞘ごと左手に携えただけでズッシリと重量感がある。鞘をはらってみると刀身の長さ60センチはある。
しばらく正眼に構えていると、重さで自然に腕が下がってくる。
上段から真っ直ぐ振り下ろすと、自分の脚の脛を斬りつけてしまいそうだった。
左から右へ水平な振ったら、柄巻きされてない白木のままだから、スッポ抜けそうになった。


近頃のテレビや映画の時代劇では、刀をいかにも軽々と振り回しているのを観ると、とても重い真剣とは思えない。竹光かジュラルミンの小道具そのままではないか。昔々、水戸黄門を映画でやっていた月形龍之介という俳優は、小道具の刀をいかにも真剣のごとく重そうに使うことで定評があった。

とはいえ、こんな重い刃物を振り回して、運悪く斬られたらキット痛いだろうなと思わずにいられない。出刃でさばいた秋刀魚ぐらいが丁度お似合いだ。

■ここからDiary

「武蔵野つれづれ」武蔵七党横山党については、一応、前回で終わりにします。ご愛読・コメント・トラックバック等々ありがとうございました。
ここからから本来のDiaryとして、気楽に日頃の想いなど記しますので今後も宜しくお願いします。


前回からいきなり話題を変えるのもナンですから、前回の「一所懸命と一所不在 」の続きの話題にします。


「一所懸命」とは、自分の土地を死守するために武力に訴えてでも懸命に守り、さらに拡張しようとした武家の偽らざる精神でした。この精神をもって鎌倉幕府以降、明治維新まで武家政権が続いたわけです。
ならば明治になって士族が廃止されてからは土地を死守する「一所懸命」の精神がなくなったのかというと、そんなことはゼンゼン有りません。今度は国単位で土地を死守し、あげくはさらに領土拡張することに国民が「一所懸命」になったのが二度の世界大戦でした。
そして敗戦後も日本株式会社のなかで「一所懸命」の精神は生き延び、土地の値下がりでバブルがハジケルまで続きました。


初期の武士像の暴力性をもって現代の広域暴力団に例える研究者がいます。名を挙げれば高橋昌明や野口実といった中世史家です。武士の主従関係とは、暴力団の親分子分の関係に他なら無いというわけです。
その意見にある程度納得できても、土地や領土に対する「一所懸命」の精神を介在させてみると、ちょっと一面的ではないかと思えてしまいます。親分子分の関係は暴力団に限らず、日本株式会社の構造でもあったわけですから。


とれわけ、その対概念として「一所不在 」をもってくると、それがはっきりします。前回、武家が生まれた同じ頃、鎌倉新仏教も生まれ、そのなかから一遍時衆の「一所不在 」の精神も生まれたことに触れました。時衆以降の「一所不在 」の系譜をたどれば、それ自体で膨大なものになりますが、それはハショッて幕末の八九三屋さん、沓掛の時次郎か木枯の紋次郎に代表されるような無宿の渡世人にいきあたります。人別帳からはずされた彼等は一宿一飯の恩と義理をたよって正に無宿の「一所不在 」に生きていました。


さて、バブルでハジケた日本株式会社は、いつまでも武家や八九三屋さんのような親分子分の関係を維持していけなくなり、時次郎や紋次郎のような一宿一飯の渡世人である派遣社員を大量に雇い、鉄砲玉のように使い捨てにするようになりました。


抗争出入り、いや仕事があれば派遣の渡世人も悪くないかもしれない。だが、一旦仕事が切れたら、彼等は無宿の「一所不在 」を生きなければなない。


巷間にいう漫喫ネット難民とかになって。。。。

一所懸命と一所不在

土地を開墾して農地とした開拓者は、その土地を領主として一所懸命に死守するため武力を持った武士に成りました。しかし、自力の武力だけでは足りず、その土地を社寺や公家貴族に荘園として寄進し、荘司の身分を獲得して法的に権利を主張したり、それでも間に合わなくなったとき、持ち前の武力による発起叛乱して武士政権を樹立したのが鎌倉幕府でした。

彼等が如何にその領地にこだわったかは、一所懸命の地銘を自らの名乗りとしたことに如実に現われています。しかも、その地銘を家名とし、領地と家名を子々孫々へ伝えていくことに腐心したのです。

鎌倉、室町、江戸時代と続いた武家政権封建制度の時代といわれます。武力を持って政権を維持した時代とは、その見返りとして領主が家臣に封土を給与した時代でした。武士の名誉だの家名などは何よりも土地があってのことでした。一所懸命の土地に縛られていたのです。


鎌倉御家人とは、彼等領主と鎌倉将軍との間に個人的な主従関係を結び、所領安堵と引替えに将軍に対して武力や労役で奉仕する武士でした。ですから、不運に見舞われて所領を没収されてしまうこともあり、所領の足りない無足の御家人になってしまいます。それがさらに進めば家屋敷の建つ本領さえ失って御家人でなくなってしまう。

所領を失った武士は武士でなくなるか、あるいは悪党になる他ないのです。前者の典型的な姿は、武士の出家であり時には遁世という生き方です。武士の出家には所領を失ったという理由ばかりでなく、武士として殺生を重ねてきて、往生際にその罪を恥じ、無常を感じて、家督を子孫に譲って出家した者も少なくないのです。

鎌倉新仏教の開始を告げたころ出現した法然や重源・栄西らはそろって武士の出身でした。その極め付けが伊予の海賊河野氏から出た一遍です。そして、一遍が率いた時衆たちは、武士がその存在の信条とした一所懸命に対抗するかのように一所不在の遍歴・漂白の徒でした。また、所領を失って悪党となった者たちが倒幕の一翼を担ったのも必然の結果だったといえます。


ところで、阪東武士の源流を狩猟時代のそれに求める説が根強くあります。軍事訓練を兼ねて年中行事のごとく開催された巻狩りなどの伝統に、それを見出すことができないわけではありません。とりわけ騎射を主な戦闘方法とした武士の姿に、狩猟時代に獲物を追った猟人の姿が重なります。

騎射という戦闘技術が同じものであっても、猟人と武士のそれでは土地に対する信条に飛躍した隔たりがあります。武士がその発生からして持った、持たざるを得なかった一所懸命の信条や観念と、狩猟時代の猟人のそれとは必ずしも重なりません。

猟人は家をもたなかったとは言えないまでも、特定の土地を所有していては獲物を追うことはできません。つまり、定住する必要がなかった一所不在が狩猟時代の姿です。

そして未だに一所懸命の土地信仰から離れられない現代人がいます。