□ 禅と念仏

禅者が「悟った」などと主張するは如何わしいと以前何処かで書いた気がする。禅者がそんなことを言えるのは、人間には元来から神性がある、禅宗は仏教だから人間には生まれながらに仏性があるという、まるで儒教朱子学と同じ発想によるからだ。

禅者がそんなことを言えたのは、彼らが儒教朱子学を伝えたからなのか。ともあれ儒教朱子学は何を根拠にそんなことを主張できたのか。中国で儒教朱子学を担ったのは士太夫などと呼ばれた連中で、高等文官試験のような科挙によって世に出てきた者だ。彼らはだから階級を越えて読書人や文人や政治家として活躍できから、人間には等しく神性があると考えられた。

つまり、禅者が「悟る」ということは、人間に等しく内在する神性や仏性を発見できたということらしい。

禅者の修行方法の第一は言うまでもなく座禅である。この座禅は瑜伽と元来は同じものだと言われても驚かないが、座禅と念仏は同じところから発生したと知ったときは、いささか驚いた。何しろ禅宗は自力で悟り、専修念仏の浄土宗などは他力によって成仏できるというのが相場だからだ。

宗教は現実に対する不満や不安から生まれる。現実に満足していたなら、それに拠って生きられる。しかし、現実に満足していなかったら、現実とは異なる次元に拠り所求める他ない。その異次元とは現実に対立した来世、死後の世界に他ならない。宗教が現実とは異なる幻想に他ならないことはここにあるといえる。

過酷な現実を生きなければならなかった古代インドに生まれた仏教は、死後に生まれ変わって幸福になれると輪廻説によって説明した。インドの現実の中で成仏は無限の彼方にある。

このインド仏教が中国へ渡ると、現世主義の中国では、無限の輪廻を断ち切るために禅宗浄土教が生まれた。というより、インテリには座禅を、大衆には念仏を勧めた。浄土教は念仏に努めれば死んだら必ず極楽浄土に生まれて成仏できると教え、禅宗は座禅によって現世で成仏できるとした。神や仏を自分の中におくか、他所におくかの違いで、いずれも神や仏という超越者をもってくる。

自分の中に神や仏を見出そうとする禅宗が、ひたすら座禅によって成仏しようとするのは、その超越者は現実には無、存在しないからだ。

また、浄土教における超越者の阿弥陀仏は、親鸞のいうことによると方便に過ぎない。南無阿弥陀仏と念仏を唱えても、それが主体として存在するわけではない。念仏を唱えて自然に到達すれば、この世が違って見えてくる。それが浄土に他ならない、という。

これは一つの解釈として考えられるというわけではなく、実際に江戸時代初め亡国の明から招かれた臨済宗隠元隆蒅禅師によって伝えられた黄檗派は、明朝風の禅と念仏が一体化した念仏禅であった。立てば念仏、座れば禅というわけだ。

ところで、この黄檗宗から天下の偽書先代旧事本紀大成経』を著したとも、宣伝役をしたともいわれる怪僧潮音道海が出た。江戸時代は禅宗も含めた仏教が否定されて儒教の後身である朱子学徳川幕府に採用され、中世の神仏習合から神儒習合となった。そんな世にあって同書は神道儒学・仏教の三教調和を主張した。僧潮音道海が三教調和の『大成経』に関わったのは、黄檗宗が禅と念仏を同時に採用していたことと無関係ではないのではないか。

それにしても、徳川幕府にとって何故の儒教朱子学であったのか。