■ハラキリ

切腹は武士の自死の仕方であった。
二本差しの太刀は攻撃もしくは防御用であったが、小刀は自死の道具とされた。
それにしても武士は何故に自死の仕方を切腹に求めたのか。


今年の春頃から身体がやたらと疲れやすくなった。何をやっていても長続きせず、直ぐに横になりたくなる。食欲も少なくなり、たまに会う人から、少し痩せたのではないかなどと言われるようになった。梅雨時頃から偶に食べたものをもどしてしまうことがあった。

長く続けられるのは車の運転ぐらいだったから、お盆には片道二百粁近い距離を五時間かけて走って実家へ行ったのはいいが、そこでご馳走になった海鮮料理をまたもどしてしまった。そこで漢方医でもある義姉から初めて鍼を打ってもらって何とか落ち着いたものの、帰宅したら必ず病院の精密検査を受けるように厳重に言い渡されてしまった。

日頃から健康診断もろくにうけていなかったから、こんな際だからと覚悟して近所の病院の消化器内科を受診した。直ぐにヴアリュウムを飲まされて内視鏡検査を受けた結果、食道癌ですから直ぐ手術する必要があります、とあっさり宣告されてしまった。ヘビースモーカーでもあったから、犯られるなら肺だろうと思っていただけに、食道とは意外だった。

但し、当病院では食道の手術はできないので系列の大学病院を紹介してもいいと消化器内科の先生はおっしゃる。だが、翌日、翌々日と検査はまだ続き、CT検査、エコー検査の結果、患部は食道から胃にたっしていることが判明し、結局病名は食道・胃接合部癌ということになった。内視鏡検査でそれが分からなかったのは、食道から胃へ内視鏡が通らないほど食道が狭くなっていたかららしい。

食道だけでなく胃もやられていたことが分かると、当病院の外科でも胃から食道へ手をのばす手術ができるということだった。事のついでにたずねてみた。胃を切除したら、その後どうなるのか。食道に小腸を直結すれば、栄養は小腸から摂るから問題ないという。

問題は、下世話なことだが、手術を当病院と大学病院のどちらで受けるか自分で決めて下さい、と言われてしまったことだ。しかも、既に連絡されていたらしく、その日のうちに大学病院の消化器外科から直接電話があって、ベットと手術チームの空きがあるので、今日中に返事があれば引き受けるという。大学病院へ行くには電車とバスを乗り継いで一時間かかるが、検査を受けた近所の病院なら専用バスで十分で行ける。手術はともかく、退院後の通院を考えると近くに越したことはない。

しかし、そんなことは取り越し苦労というか、まずは手術が成功するか否かが問題ではないかということで、家族会議の結果、大学病院へ入院と手術をお願いすることにして、翌日には手続きをとった。再度数日の精密検査の結果、手術に先立って主治医から言い渡されたことは、開複してみて転移がひどかった場合、患部の切除はせず直ぐに閉じてしまうということだった。

数時間の手術の後、麻酔から覚める間に、掌のひらにのるほどの切除した患部を前に、家族は主治医から肉眼で確認できる範囲は切り取ったと説明されたという。食道の一部と胃の半分ほど切除したらしい。手術後、数日ICUに缶詰にされながら、それでもリハビリの名目で、身体から数本の管をぶらさげながら三十米ほど先のトイレには看護師さんの手を借りながら歩かされた。

病棟へ戻されて風呂へ入ると真っ先に手術痕を鏡に写して確認した。手術に先立って署名した同意書の、治療欄にあった左開胸開腹の事務的な文字の具体性は、左胸の脇腹から斜めにヘソ上の腹まで長さ三十糎、丁度袈裟懸けにハラキリされ、数えてみたら綺麗に二十針並んでいた。

一ヶ月余の入院生活は、簡単にヘビースモーカーから卒業させてくれたが、一回の食事の量は人並みの半分も食べれない。手術から三ヶ月経た今週から体力もついたということで抗癌剤の投与もはじまった。ということは、やはり転移の可能性が全くないとはいえないということなのだ。こうなってみると、誰しも漠然と考えるだろうことを、具体的に自分の寿命と向き合わざるを得なくなる。


鎌倉時代以来、武士の多くは禅についた。生死を超越した境地を得ようとしたとき、武士には自ずから禅宗が似合っていたのだろう。そして武士は禅僧から死に臨んで辞世をつくることを学んだ。しかし、彼の『徒然草』の作者にいわせると、そうした武士の死は仰々しすぎる、死ぬときは何もいわず、静に終るのが自然である、ということになるのだが。。。