■差別された武士の果て

中世は被差別民を数多く生み出した時代です。いわゆる「道の者」といわれた「一処不在」の芸能者や諸職の職人たちですが、武芸をこととする初期の武士もその例外ではありません。この場合、武士の武芸とは殺人の業でしたから、死罪に匹敵する罪でも一等減じて遠島で済ませた平安時代には、武士の武芸は貴族たちに利用されても本音では忌み嫌われたのです。先に触れた、武士の暴力性は現代の広域暴力団に例える研究者たちは、こうした平安貴族から差別された武士の姿は目に入らないようです。


武士が被差別から脱することが出来たのは、他の被差別民が「一処不在」であったの対して、「一所懸命」の土地にしがみついたことによるでしょう。


しかし、人殺しが本業とはいえ、そこに罪業意識が生まれないわけがありません。とりわけ平安中期以後に浄土思想によってひろがった死後の極楽往生と堕地獄の教えは、晩年の武士の中には罪を悔いて出家する者を多く出しています。それは言い換えると「一所懸命」の地から「一処不在」へ出ていったと見なせます。


先日、古い雑誌類を処分しようと見ていたら、この被差別の対象としての武士に触れたものがありました。文化系の歴史学者の村井康彦の短いエッセイです。晩年に悔いて出家する武士はいいとしても、現に殺人の業を発揮せねばならない武士はどうしたか、という切実な場面があります。『保元物語』のなかで伊豆大島へ流された源為朝がいうには、人の命を絶つこと数知れずとも、道理に合わない殺人はしなかった、と殺人をも合理化していったのです。(「蔑視された武者たち」雄山閣出版『歴史公論』1980/6)


これが群雄が割拠の戦国時代の武士になると、もっと乾いた合理的な殺人の理屈をもちだ出しますす。


実力あるものが弱い者を倒して栄える時代とはいえ、その後ろめたさを正当化するため、天の意にかなった者が器量のない者にかわって王になる、という考え方です。それは天皇も幕府も超えた天の意志によるものと解釈した。その果てに、信長・秀吉・家康などが自ら神であるなどとのたもうたのでした。そして、逆に弱くて破局を迎えた者は、それも天の意志として観念する他ないと考えたのです。


そこには鎌倉武士のようなナイーブさは微塵もありません。何しろ出家したはずの信玄や謙信ですら、僧体姿の鎧兜で戦場で戦ったのですから。

それが下克上の理屈であるとすば、戦国時代はいつまで終りません。戦国の覇者となった徳川氏でさえ、いつ下克上で覆されるか分かりませんから、それをなだめるのにヤッキとならなければなせなかった。