30 和田の乱

建保元年(1213)和田の乱は鎌倉合戦ともいわれるように、鎌倉市中を戦場として将軍実朝を擁する幕府方の北条氏に対して、鎌倉御家人を統括する侍所別当和田義盛が三浦党をはじめ反北条勢力を糾合して挑んだ大規模な戦いです。

三浦党と源氏の因縁は古いものがありました。平将門の乱に続く平忠常の乱のとき、父の源頼信と供に戦った頼義が相模守に補され、北条氏の先祖にあたる平直方の娘婿として鎌倉の館を譲られたとき、三浦氏も参向したと伝えられます。頼義・義家親子の陸奥攻めに三浦為継が従軍し、眼を射られた鎌倉権五郎景正の顔を土足で踏みつけて矢を抜こうとして怒られています。

その鎌倉権五郎が開発して伊勢神宮へ寄進した大庭御厨を、三浦為継の子の義継ら在庁官人が源義朝の命令で千余騎の軍勢をもって押しかけ荒らしています。そして、義継の孫娘が生んだ義朝の子、義平が率いる三浦氏などの軍勢が武蔵秩父氏の大蔵屋方を急襲して叔父の義賢を討ったのは保元の乱の前夜の事でした。

伊豆で頼朝が挙兵したときも三浦党は源氏方につき、平氏方の畠山氏はじめ武蔵七党などの大軍に本拠である三浦の衣笠城を攻められたとき、充分に防戦した後、既に老将だった三浦義明は子の義澄や孫の和田義盛らの一族を久里浜から房総へ逃し、一人留まって果てたことでした。鎌倉入り頼朝は最初に義澄を三浦介に任命し、義盛を侍所別当にあてて三浦党の戦功にこたえたものです。

とはいえ、も三浦党といえども源氏一辺倒だったわけではありません。都から平氏軍が押し寄せた富士川の戦いの後、敗走した平氏軍を追って上洛するよう命じた頼朝に対し、上総広常や千葉常胤は東国を固めることを主張しました。広常や常胤は平氏方である常陸の佐竹氏の威嚇にさらされていたので無理も無い主張でしたが、そのとき同じことを主張したのは、直接の危機にさらされていたわけでもない三浦義澄だったのです。

後に上総広常は頼朝の命令によって梶原景時に暗殺されています。頼朝が後白河上皇の宣旨によって流人や謀反人から朝臣に返り咲いたときであり、阪東武士団が頼朝を担いで樹立したはずの独立国が終焉したときでした。この三浦義澄の甥が和田義盛です。義盛の一見充てのない謀叛の理由を追っていくと、頼朝が没した翌年に七十四歳で没した義澄の富士川の軍議の主張に行きあたります。


頼朝は独裁権力を行使し、後を継いだ頼家もそれを真似ようとしましたが、御家人たちによってたちまち牽制され、宿老たち十三人による合議制が敷かれました。何とか将軍独裁を廃そうとしたところに、鎌倉幕府は阪東武士団のものという挙兵以来の悲願がにじみ出ています。

しかし、和田の乱ころには既に宿老たちは誅殺されたり没したりして、文官の大江広元などの他は北条義時和田義盛足立遠元の三人しかおらず、足立氏はともかく幕閣は北条氏と三浦党和田氏の対立の図式があらわになっていました。将軍頼家に続いて実朝を出した北条氏は、将軍を補佐し政務を総轄する執権職という有利な立場から独裁的な方向へ進み出していたのです。

和田の乱は一般に和田義盛と親戚の横山党による挙兵といわれますが、それだけではなく北條氏独裁に反対した多くの御家人たちが一味同心しました。頼朝挙兵のとき、三浦党と並んで主戦力となって戦った中村党の土肥・土屋兄弟も和田方へ味方しました。彼等の妹婿になった岡崎義実三浦義明の弟ですが、当然のごとく同心しています。また、鎌倉党の大庭景兼はじめ誅殺された梶原景時の遺臣たちも参戦しました。

和田義盛の挙兵は誰かを旗印に担いだ様子もないから、単に幕府に対する謀叛というより、北条氏を倒して玉である将軍実朝を奪おうとしたのかもしれません。申の刻というから午後四時ごろ、義盛の館に集まった軍兵が出撃し、二時間後の酉の刻には幕府御所の四面を取り囲んで一斉に攻め、御所に火を放って警護の武士と攻防になりました。炎上する御所から実朝は辛うじて法華堂へ脱出しています。

幕府側は波多野忠綱が先頭に立ち、また三浦義村がこれに馳せ加わっていました。 義村は同じ三浦党として和田義盛と誓紙を交わしたにもかかわらず、幕府側へ寝返ったのです。波多野氏も忠綱の従兄弟の盛通が和田について敵味方に別れて戦いました。

和田氏の同族でも義盛の甥の高井重茂は幕府側となり、義盛三男の朝比奈義秀と攻戦し、互いに落馬して組討の果てに討たれています。義秀は和田勢で最も奮戦し『吾妻鏡』は「神の如き壮力、敵する軍士ら死を免れる者無し」と称賛しています。

しかし、日が暮れ夜になっても戦った和田方は疲弊して前浜の辺に退きました。翌朝、寅の刻、午前四時ごろ、横山党の横山時兼が一族を率いて到来して義盛の陣に加わりました。彼等の脱ぎすてた蓑笠は積んで山を成したといいます。

横山党が和田の乱に加担したのは一重に和田氏との姻戚関係からです。和田義盛の妻は横山時兼の伯母であり、嫡男和田常盛の妻も時兼の妹でした。同伴した渋谷高重の妻も時兼の伯母にあたります。その他、海老名、波多野、梶原氏など多くの親戚関係者が横山党に組したのです。

辰の刻、午前8時になると曽我・中村・二宮・河村の輩が幕府側の応援に押し寄せ、とりわけ泉親衡謀反を暴く切っ掛けをつくった千葉成胤は党類を引率して上総から遠来、大活躍したといいます。戦場は若宮大路を中心に市街各所で激戦となり、新手を繰り出してくる幕府軍に対して、和田方は次第に疲弊し、数を減らしていきました。

酉の刻、午後6時には和田義盛の四男義直が討ち取られると、最早合戦も益無しと声を揚げて悲哭し、遂に息子らと供に討たれてしまいました。

そんななかで朝比奈義秀は戦場を脱し、船六艘、兵五百騎とともに安房国へ逃れたと伝えられます。また、横山時重と妹婿和田常盛は横山党古郡保忠の領地である甲斐国坂東山波加利庄まで逃げて、そこで自殺しました。相模川の上流、桂川を遡って笹子峠の麓に位置する初狩の辺りといわれます。

彼等は何故こんな処まで逃げたのか。峰ひとつ越えた処に、かつて横山党の領地であった田原(都留市)に小山田氏がいました。横山時兼の曾祖父孝兼の娘が秩父重弘と結婚したとき田原の私領を持参し、その子の小山田有重から六郎行幸相伝されて居ついたものです。もしかして、彼等はここを根拠に反撃しようとしたのかもしれませんが、辿り着くことなく果てたのです。彼等の首はその日のうちに届けられ、合戦後、固瀬川に梟された和田方の首級は百三十四あったとされます。

和田常盛の子の和田朝盛は将軍実朝の近臣だったことから挙兵に反対して出家して逃げたものの義盛に呼び戻され、法衣のまま出陣していましたが、再び逃げ延びたといわれます。和田方で他にも逃げ延びた者もいました。翌年の十一月、泉親衡謀反に担がれた千寿は出家させられて栄実と名乗っていたのを、和田の乱の残党に擁せられて六波羅を襲おうとした企てが漏れ、京都一条北辺の旅亭を襲われ自害しています。

和田一族で生き残ったのは義盛の甥の高井重茂の子孫です。義盛弟の和田義茂が木曾義仲追討に功として得た越後国奥山庄の地頭職にその弟の宗実が補され、義茂の子の重茂が宗実の娘婿となって継いでいました。重茂は朝比奈義秀に討たれたのですが、その子孫が栄えました。

多摩と相模の横山党は族滅し、横山荘は大江広元に与えられました。横山氏の名が歴史的に残るのは、管見によれば多摩府中の武蔵国総社六所神社(大国魂神社)神主が明治になって品川県庁へ提出した「社職家系」の中に、御旅所御饌司として本姓小野氏、族称横山氏の名がのこるのみです。総社六所神社の一宮とされる小野神社の関係からでしょうか。


彼等は何故、敗れたのでしょう。兵力の差はともかく、その親類縁者など血縁を基本にした関係でしかつながっていない点にあるように思えます。それは幕府側の北條氏も同じことでした。家督を継いだ得宗家中心の鎌倉後半の幕府を倒したのは、血縁を越えて利害を供にした地縁組織による一揆であったことが、何よりそれを物語っています。


   山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも


将軍源実朝の『金槐和歌集』最期をかざる歌です。和田合戦以降ますます京都へ傾いた実朝が殺されたのは六年後のことでした。

29 泉親衡の謀反

多摩川の向かいの丘に源家重代の祈祷寺である長尾山威光寺(現妙楽寺 )は、頼朝の異母弟で義経の実兄今若、阿野全成が領していたことは先に触れました。全成の妻は北条政子の妹阿波局でしたが、比企の乱に先立って二代将軍頼家の命令で誅殺されました。頼家の対抗馬であった弟の千万、後の実朝の乳母夫だったからです。

この威光寺を全成が領する以前、横山党の小山有高(菅生有隆)が横領していて、幕府から押妨停止を命じられたことがありました。

全成が誅殺され、その隣に桝形城を構えていた稲毛三郎重成も北条氏によって滅ぼされてから三年後の承元二年(1208)六月、今度は多摩川の対岸から武蔵七党武士団の日奉(西)党の狛江入道増西が一党五十 余人を率いて威光寺領に乱入し、苅田狼藉を働きました。この年の五月から六月半ばまで「一滴の雨も降らず、庶民耕作の術を失ふ」という状態での狼藉でした。翌月、威光寺の院主が幕府へ訴え、狛江入道に鎌倉永福寺の宿直百ヶ日を勤仕させたと『吾妻鏡』にあります。

狛江入道は日奉(西)党の成員には違いないのですが、ここから少し多摩川上流の日野市を中心に栄えた日奉(西)党としては、狛江氏だけが府中辺りを中心に領する横山党の領域内か、それを飛び越えて位置します。もしかして狛江氏は横山党と関わりがあるのではないかと思って系図を見直してみました。

西党系図によると由井別当宗弘の次男由井二郎の孫の狛江大夫を『吾妻鏡』にいう狛江入道増西としています。そして系図では狛江大夫の父は三郎といい、子は由井五郎としていますから、狛江大夫自身は四郎を呼ばれた可能性が大きいことになります。

そこで横山党の小野氏系図を見ると、横山党六代目党主横山時廣の娘の一人を狛江四郎妻としていますから、明らかに横山党と日奉(西)党の間に親戚関係があったのです。西党の由井別当とは八王子にあった由井牧の長官ですから、次男の四郎は横山時廣の娘に入り婿して狛江へ移り住み、狛江大夫・狛江入道増西を名乗ったと見なせます。つまり、狛江入道一党による威光寺領襲撃の背後に横山党があったことになります。

源家重代の祈祷寺である威光寺領に対する小山有高(菅生有隆)の横領といい、狛江入道の襲撃は、横山党が源家に遺恨があったのではないかと思わせる出来事です。


さて、そんな事件から五年後の建暦三年(1213)i二月、泉親衡なる者の謀反計画が発覚しました。信濃の国の住人、青栗七郎の弟阿静房安念という法師が合力を求めて廻文を持ち廻っていたのを、怪しんだ千葉介成胤の被官粟飯原次郎が搦め取って北条義時に知らせたのです。

安念法師の白状によると、将軍実朝と北条義時を討ち、前将軍頼家の次男千寿(後の栄実)を立てるという謀叛計画があり、去々年以後多くの御家人たちに合力を求めていたといいます。その張本人は青栗七郎が仕える信濃国御家人泉親衡と判りました。たちまち各所で謀議の参同者十余人生虜られ、その他に張本百三十余人、伴類二百人におよび、前将軍頼家の遺児千寿を担いで北条義時を退けるという大規模な陰謀であることが判明したのです。その中には侍所別当和田義盛の子の四郎左衛門尉義直や六郎兵衛尉義重、それに甥の和田平太胤長もいました。

謀叛の張本人の泉小次郎親衡とは、いわば信濃源氏で、先祖をたどれば清和源氏の一員です。多田源氏満仲の次男頼信の子孫が鎌倉将軍になった系統であったのに対し、満仲の五男満快の子孫にあたるのが信濃の泉氏でした。満快から四代目の爲公の母が源頼信女で、源頼義・義家親子に仕え、後三年の役に義家に従って戦功を挙げて信濃国伊那郡を拝領し、次男爲扶は伊那太郎を称してその子孫が信濃国に住み着いたといわれます。長野県飯山市に、泉親衡が下伊那郡阿智村から移して一族の菩提をとむらったと伝える大輪院東行寺がありますから、この一族の先祖が信濃国に住み着いたのは中仙道の阿智村と思われます。爲扶から八代目が泉親衡で、泉氏を名乗ったのは小県郡小泉荘(上田市)に拠ったことによります。

この泉親衡を捕縛に向かった一行は、反撃されて数人が殺されて取り逃がし、遂に親衡は行方知れずになってしまいました。因みに信州の小泉小太郎伝説は泉親衡がモデルともいわれています。


その頃、和田左衛門尉義盛は所領の上総国伊北庄に出向していて、報せを受けて馳け参じます。上総国の所領はかつて上総権介広常の所領であったものを、頼朝の命令で梶原景時によって広常が誅殺されたとき、義盛と千葉常秀が折半する形で継承したものでした。

四年前、義盛はこの所領を根拠に将軍実朝に上総国司への任官を願い出たとがあります。実朝は任官させるつもりだったのですが、侍身分の者は受領にしないのが頼朝以来の先例、として政子の拒否によって沙汰止みなりました。これが実現していたなら、義盛は幕府内において北条氏と並ぶ地位を得た上に、上総国の在地支配を有利にできたはずでした。そして千葉常秀は義盛の支配下に立たされざるを得なかったはずなのです。泉親衡の謀叛を北条義時に告知したのは常秀の兄の千葉介成胤でした。

和田義盛は将軍実朝の御所に参上すると、これまでの労功に免じて子息義直・義重等は罪名を除かれたものの、甥の胤長は謀叛の張本の一人として許されなかったのです。翌日、義盛は水干に葛袴を着けた正装で御所の参上、一族九十八人を引率し南庭に列座して是が非でも胤長を赦免してほしいと強引に申し入れものです。しかし、胤長は許されことなく、あまつさえ一族の面前で両手を後ろ手に縛られ山城判官の二階堂行村に引き渡され、やがて陸奥国岩瀬郡へ配流に決まってしまったのです。

面目丸つぶれの義盛をさらに怒らせたのは、没収された胤長の屋敷地は一旦は通常通り縁者の義盛に引き渡されたものの、数日後には北条義時に与えることに変更され、義盛の代官は追い出されてしまったことでした。

そして翌日には和田義盛の館の辺に甲冑を着けた五十余輩の武者が徘徊するようになりました。これは横山右馬允時兼が彼の金吾の許に来たことによる、と『吾妻鏡』は記していますから、横山党が義盛を護衛していたのです。義盛の妻は横山時兼の伯母で、嫡男の宗盛の妻は時兼の妹という関係にありました。三浦半島芦名の浄楽寺に安置される阿弥陀三尊はじめ諸仏像の中の毘沙門天の胎内から発見された銘札に、大和興福寺仏師運慶の作で、願主の名は平義盛と芳縁小野氏とありました。平は和田義盛の本姓、小野氏は横山氏の本姓ですから、夫婦で造仏の願主になっていたのです。この事件が起きる二十四年前、奥州攻めの直前のことです。

横山時兼が訪れた金吾とは前将軍頼家のことで、その墓所は幽閉されて暗殺された伊豆国修善寺ですから、時兼はそこまで墓参に行ったのか『吾妻鏡』の記事から判断できません。時兼はかつて頼家が誕生したとき、宇都宮朝綱、畠山重忠、土屋義清、和田義盛梶原景時、同景季らと供に御護刀を献上しています。泉親衡が謀叛の大将に担いだのは頼家の次男千寿でした。

横山党小野氏系図を詳細に見ると、時兼の祖父時重の弟の小山經隆の娘は泉八郎妻となっています。泉八郎とは泉親衡の縁者ではなかったか、と根拠も無く思われます。もし、そうであったなら、横山党も泉親衡の謀叛に一枚咬んでいたことになります。


かつて多摩川の向かいの丘の源家重代の祈祷寺である威光寺領を横領したのは、泉八郎妻の兄の小山有高(菅生有隆)でした。そして、横山時兼の妹婿になったと思われる狛江入道こと狛江四郎の一党が威光寺領を襲撃したのは五年前のことでした。和田義盛の北条氏に対する対抗意識とは別に、横山党は源氏に対する抜き難い怨恨のようなものがあったのかもしれません。

28 北条氏内訌

三代将軍実朝は京都に憧れていました。十三歳で元服すると御台所を迎えることが話題にのぼり、実朝は「都の姫君を貰いたい」と言い出したものでした。既に政子の妹が足利義兼に嫁いで生まれた実朝の従妹が候補に挙がっていたのを蹴って、注文をつけたのです。

実朝の注文を実現すべく蔭で活躍したのは執権北条時政の若い後妻の牧の方でした。平清盛の異母弟池の大納言頼盛の所領であった、駿河国駿東郡の大岡牧を現地支配した牧宗親の娘か妹といわれますが、時政が京都から連れてきた女でした。そのため牧の方は京都の人脈を使って工作した結果、公家の坊門信清の姫君を実朝の御台所に迎えることに成功しました。姫君の姉が後鳥羽上皇後宮にあがっていたので、実朝は上皇の義弟という関係になります。

このとき京都との交渉にあたったのは、比企の乱の直後に京都守護職に任命されて上洛していた平賀朝雅でした。朝雅の妻は時政と牧の方の間に生まれた嫡女です。そして、坊門家の姫君を迎えるために鎌倉から出発した一行の中には、牧の方が生んだ末子で十六歳の政範がいました。

政範は牧の方にとってただ一人の男子でしたから、行く行くは先妻の子らを押しのけて時政の跡継ぎにしたいくらいの野心を抱いていたかもしれません。ところが運悪く、この政範が上洛途中に発病し、京都の義兄朝雅の看護も虚しく客死してしまったのです。

それでも姫君は無事に鎌倉に迎えられ、牧の方は奥向きのことを自ら取仕切り、政子をはじめとする先妻の子らは手をこまねいて傍観する他ない状況でした。そして、一段落すると牧の方は京都で客死した愛息政範の復讐に取り掛かったことです。


牧の方が狙いをつけたのは時政の先妻の娘を後妻にした畠山重忠の息子重保です。重保も京の姫君を迎えに上洛した一行の一員でした。政範の死後、何が原因か宴席で重保と平賀朝雅が大喧嘩になったことがありました。朝雅の妻は牧の方の嫡女だったことから、畠山父子を逆恨みして暗殺を企んだのです。

平賀朝雅は上洛する直前、比企氏一族を族滅させたときは父平賀義信の跡を継いで武蔵守でした。そして畠山重忠武蔵国衙の在庁官人ですから、国司平賀氏との関係は対立していた可能性があります。それに加えて北条時政の先妻と後妻の婿同志という隠微な対立があったのかもしれません。いずれにしも、比企氏を倒して頂点に立った北条氏の内訌がここにはじまったのです。


武蔵国に引きこもって鎌倉へ出仕しない畠山父子を、鎌倉へ誘き出したのは従兄弟の稲毛重成です。畠山氏は秩父平氏流の嫡流ですが、庶流の重成は畠山氏を倒して嫡流の立場を狙ったのです。しかも、重成も時政の先妻の娘、政子の妹を妻にしていたのですが、頼朝の時代に先立たれて先妻の側から脱落したため、時政と後妻の牧の方の手先に使われてしまったのです。

時政から畠山父子の暗殺計画を打ち明けられた先妻の子の義時は、頼朝の時代から忠勤に励み、北条の婿でもある畠山氏を滅ぼすことに反対しました。

それでも時政は鎌倉へ一足先にやって来た重保を、三浦義村に暗殺させてしまったまです。そのうえで時政は遅れて来た畠山重忠に謀叛の意志有りとして、義村はじめ和田義盛など侍所の武者を総動員します。日頃から梶原景時などから「謀叛の疑い有り」などと嫌疑を掛けられると、重忠は「謀叛の噂なら武士の誇り」とばかりにうそぶいていたのでした。それも武蔵国随一の武力を持っていた畠山氏の吟持だったのでしょうが、この頃の武蔵国における畠山氏の統率力は弱まっいたらしく、同族の江戸氏や河越氏、それに横山・金子・児玉氏といった武蔵七党武士団も討滅軍に加わっていたことでした。四時間ほどの戦いの末、百三十余騎の重忠一行は誅殺されてしまいました。

しかし、事はそれで終らなかったのです。重忠誅殺にも加わった義時ですが、父の時政に対して、本拠へ逃げもせずに戦って滅びた畠山重忠に謀叛の意志があったとは思えない、と主張したものです。時政は返す言葉も有りません。そして義時は、事の起こりは稲毛重成の奸計にあるとして、今度は三浦義村と組んで重成一族を誅殺してしまいました。義村の娘は義時の嫡男泰時の妻でした。


数日後、北条義時は将軍実朝を政子の手元へ迎えいれ、周囲を固めたうえで時政夫妻に厳しく迫ったことでした。牧の方は将軍実朝を亡きものにし、娘婿の平賀朝雅を将軍に立て様としている、と。時政が息子の言い様に立腹して兵を集めようとしたものの、時既に遅く、昨日まで時政の言いなりだった御家人たちは皆義時の館に行ってしまい、誰一人命令に従う者はいなかったのです。

万策尽きた時政は出家し、牧の方と伊豆へ蟄居する他なかったのです。鎌倉の頂点へ登り詰めた瞬間に転げ落ちた北条時政の姿でした。義時は時をおかず京へ使いを奔らせ、在京の御家人によって平賀朝雅を討ち果たしたことでした。また、牧の方の娘を正室としていた下野国の宇都宮頼綱にも謀叛の噂があがり、鎌倉へ出仕して弁明に努めたものの出家する破目に陥りました。

そして義時は相模守と執権の立場を手に入れ、武蔵守には弟の時房を就けたことでした。北条氏の内訌は先妻の子らの完璧な勝利に帰したのです。元久二年(1205)六月のことでした。

27 比企の乱

頼朝の没した後の将軍職を継いだのは頼朝の嫡男で十八歳の頼家でした。
頼朝を生んだのは頼朝の正妻の北条政子ですが、頼朝の乳母だった比企尼以来の嘉例を理由に産屋からして比企氏の館があてられ、頼家が生まれると直ぐに乳母となった比企氏の娘たちに取り上げられてしまったのです。

比企氏の娘にはそれぞれ比企能員・安達藤九郎盛長・河越重頼らが婿となり、流人時代の頼朝の生活を支えてきたという実績をもって頼家の乳母夫になっていました。さらに能員の娘は頼家の子一万を生んだ若狭局でしたから、頼家は比企氏の若君のごとき状態だったのです。

乳母(夫)と養君の関係は実の親子に匹敵する関係にありました。比企尼の娘婿たちが二十年にわたる頼朝の流人生活を援助してきたことが、それをよく物語っています。

頼家の乳母夫は他に梶原景時と武蔵守の平賀義信もいました。しかし、景時は頼家の代になって間もなく追放のうえ誅殺され、河越重頼義経の舅ということで既に亡き者になっていました。

もう一人の乳母夫の平賀義信の後妻も比企氏の娘ですが、先夫の伊東祐清が戦死した後で再婚し、平賀朝雅をもうけていました。この朝雅は元服して北条氏の娘を妻に迎えたことから、生母の出た比企氏から離反し、後に触れるように比企氏を族滅させるために積極的に戦います。


そんなことから比企氏は将軍頼家の乳母夫といえども、幕府内で強力な権力を確立できたわけでは有りません。その端的なあらわれが頼家が後継者になると幕府は直ちに将軍の専制政治を廃止して、宿老十人の合議制になりました。梶原景時もその一員だったのですが、頼朝と一身同体となってその専制を支えてきた景時を将軍頼家がかばい切れなかったのも、この合議制に変わったからだといえます。

景時追放の理由は、頼家を廃して弟の千万(後の実朝)を擁立しようとしているというものだったのですが、頼家の乳母夫の一人だった景時にそんな陰謀はあるはずも無かったのです。宿老十人の合議制といっても、そこには微妙な内部対立があったからです。

とりわけ頼家の乳母夫になれなかった北条氏は、十年後に千万が生まれるとさっそく政子の妹の保子、通称阿波局を乳母に送り込みました。実は景時追放の火付け役になったのも阿波局でした。千万を擁して何事かを画策していたのは北条氏だったのです。頼家の代になって二年目には政子の父の北条時政従五位下遠江守に叙任され、源家一門以外の御家人では初の国司に就き、それまでは頼朝の舅でしかなかった地位からにわかに台頭してきていました。

阿波局の夫は頼朝の異母弟で義経の実兄今若、阿野全成です。洛外醍醐寺に入れられていたのですが、兄頼朝の挙兵を聴いて寺を抜け出して下総鷲沼の頼朝の陣を訪れました。僧籍にあったことから武蔵国多摩川の向かいの丘にある、源家重代の祈祷寺である長尾山威光寺(現妙楽寺 )の僧坊と寺領を復興して与えられていました。

そこは平治の乱後、源氏の衰退とともに源氏所縁の寺領も没収されて横山党小山有高の所領となっていたらしく、文治元年(1185)頼朝が再興した寺領を有高が横領したと訴えられ、有高はその返付と押妨停止を命じられた土地です。

横山党や小野氏系図には小山有高の名は無いのですが、小倉經孝の子に菅生有孝、小山經隆の子に菅生有隆がありますから、小山有高は菅生有隆を指すものと思われます。というのも、有高の菅生の地は威光寺の隣に位置するからです。しかも、有高の父經隆は彼の源氏の愛甲荘を襲った横山隆兼の末子でした。

さらに言えば、隆兼の娘が秩父重弘の妻となって生まれたのが、小山氏の館近くに進出した小山田有重で、その子の稲毛三郎重成の構えた桝形城も威光寺の隣に位置します。そして、重成の妻も北条氏の娘でした。

義経や範頼はじめ源氏一門が次々に粛正されてきたなか、阿野全成は用心深く冷静に保身をはかってきました。しかし頼家が将軍職を継いで三年目、にわかに重病に襲われた頼家は、その焦りからか、千万を擁して何事かを画策する北条氏に対して攻撃を仕掛けました。槍玉に挙げられたのが威光寺の全成です。謀叛の疑いで幕府に召還して捕らえ、下野国八田知家に預けられ、一月後に誅殺されました。


翌年八月末、頼家が危篤に陥ると幕府は相続について相談し、東国二十八国の地頭職と惣守護職を頼家の子一万に、西国三十八国の地頭職を千万に分与することを決定しました。頼家は出家して跡を一万に譲り、療養のため御所から大江広元邸へ移ったのです。

ところが、一万の外祖父比企能員はこれを不満として、頼家と計って千万とその外戚の北条氏を討つべく軍兵を集めた、というのが北条氏の『吾妻鏡』の主張です。

しかし、頼家が没すれば嫡子の一万が跡継ぎになることは分かり切ったことで、比企能員は楽観していたようです。将軍家の病気平癒祈願のために薬師仏供養を行いたいという北条氏の招きに、能員はろくに武装もせず礼装である水干を着て、数人の供を連れただけで名越の北条邸へ出向いたものでした。そして北条邸へ入るやいなや竹薮へ引き込まれ、有無を言わさず刺殺されてしまったのです。

後は北条義時をはじめ北条氏が張り巡らせた親戚一同の畠山重忠平賀朝雅三浦義村それに小山一族などの軍勢が比企氏邸を不意打ちし、二時間余の間に比企の息子や娘婿たちを殺し、若狭局と一万も炎の中に死んでいます。

頼家は危機を逃れたものの、間もなく伊豆の修善寺へ押し込めになり、一年後には北条氏の刺客に暗殺されてしまいました。頼家の跡継ぎになったのは弟の千万、京の後鳥羽上皇から「実朝」とするように命名された十二歳の若者です。

それと同時に、政所の長官である初代<執権>に北条時政が就任したことでした。

26 景時謀叛

伊豆の流人頼朝に平氏打倒の挙兵を仕向けた一人に怪僧文覚がいます。当時なら何処にでも転がっていそうな髑髏を拾ってきて、これが頼朝の父義朝のものだと見せて、父の敵討ちをせぬかとそそのかしたのです。それは流人時代の頼朝の夢枕に立った鎌倉の稲荷神と同じような立場というか、文覚が頼朝に鎌倉の稲荷神とそれを祭る鎌倉党へ引き合わせたかのような関係に見えます。
とすれば、文覚と稲荷神の間に何らかの関係が有ったはずです。


文覚は鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えた武士で、北面の武士が詰める武者所に通い、俗名を遠藤盛遠といいました。出身は摂津国の海賊渡辺党の一員ですから、事件を起こさなければ摂津源氏頼政と供に戦死していたでしょう。同じころ頼朝も上西門院に仕えていたので、二人はそのころからの顔見知りだった可能性があります。

文覚は十七歳のとき従姉妹で人妻の袈裟という女に恋い焦がれて無理矢理一夜契ったところ、袈裟にこうなったからには夫を殺してほしいと頼まれ、忍び込んで夫の首を切り取ってきました。ところがその首は夫の身代わりとなった袈裟の首だったのです。あまりの事に袈裟の夫に殺してくれと自首したものの、許されて出家しました。

その後、各地を荒修行して歩き、遂に飛ぶ鳥をも祈り落すという験力を身につけ、刃の験者といわれて恐れられるようになりました。京の高雄山に住み着き、そこにあった空海ゆかりの神護寺の復興を思い立ったのが三十歳のときです。それから五年後、白河法皇の御所へ押しかけて神護寺復興の寄付を要求し、暴言を吐いた罪で伊豆へ流されてしまったのです。そこに流人となって十三年目の頼朝がいました。

文覚が許されて神護寺へ戻ったのは五年後ですが、頼朝が挙兵したのはそれから二年後でした。頼朝と文覚の間に交渉があったのは、この間と思われます。文覚は再び白河法皇をおとづれて寄付を要求しました。法皇から神護寺復興の寺領が寄進されたのは許されてから五年後のことで、木曾義仲が上洛して平氏を京中から追い出して三ヵ月後でした。頼朝が上洛に反対していた上総権介廣常を殺し、範頼・義経の率いる大軍を上洛させたのは、その直後のことです。頼朝を挙兵させることで文覚の要求を受入れることを白河法皇は約束していたのです。

出家してからの文覚は空海ゆかりの寺院を復興するこを念願にしていました。神護寺復興がなると、平氏に焼かれた東大寺の復興に奔走する重源に加勢するの傍ら、今度は東寺の復興に挑んでいます。東寺は平安京羅城門の左右に並ぶ一 つで、嵯峨天皇から空海に与えられた真言宗の最初の密教寺院であり、後に東密の根本道場になりました。 そして、空海は東寺を密教寺院として整備するとき、稲荷山から材木を調達し、さらに伏見稲荷社を東寺の護法神とししたのです。空海ゆかりの神護寺や東寺を復興した文覚が、それを知らぬはずが有りません。文覚が頼朝に鎌倉の稲荷神とそれを祭る鎌倉党へ引き合わせたのかもしれない根拠がここにあります。



しかし、文覚にとって何故空海だったのでしょう。文覚が各地を荒修行した先々の多くはが真言宗の寺院であったということもあるのですが、例えば東寺は正しく教王護国寺といわれるいうように、空海の本心はどうあれ、表向きは比叡山を開いた最澄に負けぬくらい鎮護国家を標榜していたことに同感したのです。平たく言えば国家のための仏教として真言密教を称えたのです。文覚が白河法皇にどれほど暴言を吐こうと、空海ゆかりの寺院を復興することは鎮護国家に役立つという信念に変りなかったのでした。それも抽象的な鎮護国家ではなく、法皇(天皇)あっての仏法という、平氏政権以前の国家像を理想としていました。重源の東大寺復興を手助けしたのも、理想を実現するためだったのです。

流人頼朝を挙兵させようとしたのも同じ発想からでした。そして、頼朝は文覚に、白河法皇の思惑に乗ったのです。頼朝の二度の上洛がまずもって東大寺上棟式であり、大仏開眼供養であったことは、それを如実に表わしていました。無論、頼朝は朝廷の宗教政策に便乗しただけでなく、積極的に京都政権に介入し、さらには大姫を後鳥羽天皇へ入内すべく運動に乗り出しました。

その結果は京都貴族の手練手管に翻弄され、大姫は父に殺された清水冠者義高を想い焦がれて病死してしまいました。頼朝が夢破れて没したのも、それから間もないころでした。百発百中の騎射の腕前だったはずの頼朝ですが、事もあろうか落馬が切っ掛けの急死だったのです。

鎌倉幕府の正史であるはずの『吾妻鏡』には、頼朝の死とその前後が有りません。編纂者である執権北条氏が疑われるの無理のないことです。晩年にいたってますます京都政権へ身を寄せていった頼朝に対して、北条氏ばかりでなく、鎌倉御家人たちは頼朝の阪東に対する裏切りを誰しも快く思っていなかったはずです。最早、誰に暗殺されても不思議ではなかったのです。


それを象徴する事件が頼朝の一周忌直後に起きました。頼朝の分身のごとくだった梶原景時が、有力な御家人たちの連署による弾劾によって鎌倉から追放されてしまったのです。一時は相模国一宮にある所領の城郭に防戦の構えをしたものの、夜陰に紛れて脱出し、駿河国清見関で近隣の武士たちと行き合い、合戦となって孤立無援のまま一族郎党が討たれ、ほとんど族滅となってしまいました。

景時は明らかに上洛しよとしたのです。鎌倉党が所領の鎌倉の地を頼朝と幕府に占拠されてどれほど怨みに思おうと、頼朝と一心同体の景時もまた京都志向が強かったのです。頼朝の蔭の役目を一身に引き受けた景時でしたが、表の晴の舞台では、事有る毎に頼朝の和歌に返歌を返せるほど風雅の才を持ち、都の事情に通じていました。

平氏政権下で大番のために上洛した景時は、弟朝景とともに大納言徳大寺実定の屋敷に出入りしていたのです。実定と和歌を通じて親しかったのが摂津源氏頼政でした。また、実定の父公能の猶子になった藤原光能後白河法皇の第一の側近で、その妹は以仁王の妾になっていました。頼朝を挙兵させるべく白河法皇の意向を文覚に伝えたのが側近の藤原光能です。徳大寺家に出入りしていた景時は和歌ばかりでなく、こうした朝廷の意向をも熟知していたはずです。

鎌倉を追放されて上洛しようとした梶原景時の目的は、京の朝廷軍をもって鎌倉の倒幕を目指す、それは早すぎた<承久の乱>ではなかったかと思えるのです。

そのとき景時すら気付かずに作用したのが本来の意味での御霊社でした。新たな権力が辺鄙な阪東の鎌倉に出来たことで、それまで中心にあった京都は自ずから周辺化しました。御霊として祭られた神々とは、本来、権力の中心から遺棄された者の霊に他なりません。権力の中心移動によって周辺化した結果、京都政権=は周辺の御霊神と一体化したのでした。

25 御霊と稲荷

HON22006-12-08

富士の裾野で死んだ曾我兄弟は後に富士郡六十六郷の御霊神として祀られました。仇討ちを果たしたものの頼朝殺害に失敗して非業の死を遂げた兄弟は御霊神となり、守護霊として祀られたのです。富士郡北条時政の所領ですから、そこから頼朝殺害を計った張本人も時政であろうという説も出てきます。

それはともかく、鎌倉は本来から御霊信仰の地でした。鎌倉党の始祖鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社を鎮守とする地だからです。景政自身は何も非業の死を遂げたわけでは有りませんが、神社の御利益は眼病に効くとありますから、奥州戦に八幡太郎義家麾下として金沢柵で戦ったとき、右目を射られても慌てず、敵に逆襲したという武勇伝の持主でした。鎌倉党の大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉という鎌倉党五家の始祖、五霊が御霊に転じたのではないかともいわれます。


権五郎景政の命日とされる九月十八日、鎌倉坂ノ下の御霊神社祭礼の日、境内の湯花神楽の後に面掛行列が繰り出します。行列は先行する神輿の後、お囃子と幡持ち連に続いて、猿田彦獅子頭、爺、鬼、異形、長鼻、烏天狗、翁、火男、布袋、それにオカメの孕み女と取り上げ女、最期に猿田彦が控えています。これらが揃って仮面を被って、極楽寺坂下の虚空蔵堂前の星の井と長谷の間を往復する道中を、ぞろぞろ歩くという異様な行列です。行列の主役はオカメ面の孕み女で、地元では「孕みっ人行列」と呼ばれ、妊婦の孕み女の滑稽な仕草は見物人を喜ばせ、また見物の女性の中には妊婦のお腹を触らせてもらう人も出ます。

極楽寺坂の切り通しは北条氏の執権時代になってから、真言律宗の忍性が極楽寺へ通じる路を付近に住み着いていた貧民や病人救済の便に彼等を動員して開いた坂道です。この面掛行列の元は非人面行列と呼ばれ、明治の神仏分離以前は八月十五日の鶴岡八幡宮の例祭行事だったのです。

巷間の伝えによると、孕み女の名は菜摘御前(なつみごぜん)と通称され、藤原頼兼こと鎌倉弾左衛門という非人頭の娘とされています。弾左衛門は御霊神社などの掃除や人足を統括していた長吏でした。『新編相模国風土記稿』によると、極楽寺から稲村ヶ崎へ降る途中の字金山に摂州より移りきた長吏が居住し、鶴岡八幡宮の祭祀のときは烏帽子に素袍を着て先立ち例あり、と記されています。非人頭の娘である菜摘が鎌倉殿頼朝の子を孕んだというので、非人たちがお祝いに繰り出したのが例祭のはじめと伝えています。
女好きで評判の頼朝ですが、何故、非人の娘を孕ませたのでしょう。それは頼朝が平氏打倒へ挙兵し、石橋山の戦いに敗走したとき、その蔭で危機を救ったのが鎌倉弾左衛門の一党で、その功労に対して長吏のお墨付きをもらい、おまけに娘の菜摘御前にはお胤をいただいたということらしいのです。


文治元年(1185)八月二十七日の『吾妻鏡』に、御霊社が地震の如く鳴動したとあります。大庭景能が驚て頼朝に報せると、頼朝は自ら参って願書一通を奉納の上、巫女等の面々に藍摺二反を賜物し、御神楽を行ったといいます。御霊社と頼朝の間に徒ならぬ関係を示唆しています。

また、この年の四月、頼朝の夢枕に老翁が現われ、「我は西の方の隠れ里に住む宇賀福神なり。汝よろしくわが泉をくんで祈るべし」とお告げがあったので、頼朝は隠れ里をおとづれたという伝えがあります。隠れ里の宇賀福神とは通称銭洗弁天こと銭洗弁財天宇賀福神社の祭神のことです。

さらに銭洗弁天の近くに佐助稲荷神社があります。略縁起によると、「頼朝が伊豆の流人時代、一夜老翁が現われ、公は清和の嫡流にしてまさに天下統一すべし、早く義兵を起こして奢れる平氏を討滅し宸襟を安んじ給へ、我は鎌倉鎮座の稲荷の神なり、時節到来を告げ知らすなり、と御声と共に失せ給う」とあります。それが何故か、文治元年は巳年で巳の月の巳の日だったと伝えています。そこで、平氏を倒せたのも稲荷神の助けがあったからと、畠山重忠に命じて社殿を再建させたと伝えます。配流以前の頼朝の官職が兵衛佐であったことから佐殿と呼ばれ、それを助けた稲荷神だから佐助稲荷神社と呼ばれるようなりました。

御霊神社の非人面行列が元は鶴岡八幡宮で行われていたのは、かつて源頼義が石清水八幡を勧請した元八幡を頼朝が小林郷の北山に転じたとき、その地に荷神神を祀る松ヶ丘明神が鎮座していて、鶴岡八幡宮のために譲らねばならなかったからです。そのためか佐助稲荷神社は鶴岡八幡宮が非常の際のお旅所とされていました。


鎌倉の地主神ともいえる稲荷社の宇賀福神は何処からもたらされたのでしょう。

稲荷といえば即狐と相場が決まっているようですが、それは比叡山といえば猿とされるように、本来の祭神と神使を取り違えたものだったのです。稲荷社の本社である伏見稲荷神社の御神符に明らかなように、稲荷の祭神は宇賀神で、人面蛇体の蛇神です。佐助稲荷の御告げが巳年で巳の月の巳の日だったのも、祭神が紛れもなく蛇神の宇賀神だったからでした。

伏見稲荷神社は古代最大の渡来氏族である秦氏氏神として、和銅四年に創建されたことは『延喜式神名帳頭註』などに明記されています。しかし、稲荷山はそれ以前からあり、峰から奈良朝以前の銅鏡なども出土しています。陰陽五行思想に詳しい吉野裕子によると、稲荷山の神が蛇神から狐に替えられたというか、狐を神使として追加されたといいます。和銅年間の初め、諸国で長雨がつづき、水害と飢餓が蔓延しました。そこで水を塞き止める土手の土気・土徳を持つとされる狐神鎮祭として和銅四年に伏見稲荷神社が創建されたということです。従って、鎌倉に勧請された稲荷神は正しく稲荷の祭神を伝えていたのです。

藤原頼兼こと鎌倉弾左衛門と鎌倉の関係の発端について、江戸時代の『大日本人名辞書』に次のようにあります。弾左衛門の先祖は秦武虎といい、平正盛の女に惚れて奪わんとし、正盛に追われて阪東へ逃げ、頼朝に仕えて捕吏の支配を命じられたとあります。徳川時代の書ですから、さらに続けて、その裔は徳川家康に仕えて罪人取扱いと畜類の死屍を取扱うといいますから、江戸の弾左衛門へつなげられています。鎌倉と江戸の弾左衛門が血統的につながるとも思えず、おそらく職能的に同類と見なされたのてしょう。

平正盛源義家の嫡男で前對馬守義親を追討して一躍伊勢平氏の名を挙げ、後の平氏全盛の切っ掛けをつかんだ男でした。鎌倉弾左衛門の先祖が正盛に追われて鎌倉に逃げてきたとすれば、義家の奥州攻めの後にあたり、鎌倉権五郎景政が浮浪人を集めて盛んに鎌倉の開拓を進めていた時期にあたります。これが伊勢神宮へ寄進されて大庭御厨になりました。その鎌倉へ弾左衛門の先祖は逃げて来て、稲荷神を祭り、自らの職能を果たすようになったのでしょう。弾左衛門の先祖は秦武虎という秦氏を名乗っていたということは、秦氏氏神を勧請したことになります。


鎌倉の亀谷に頼義以来の源氏の館がありました。頼義が相模守として下向したとき、 平直方の娘婿となって譲与されたものです。嫡子義家の生まれた場所が長谷の甘縄神明社と伝承されますが、そこは御霊神社の真近にあたり、佐助稲荷や銭洗弁天も遠くありません。銭洗弁天の北側に現在も梶原の地銘をのして、鎌倉党梶原氏の梶原郷にあたり、その先に大庭御厨が広がっていました。

頼朝の父義朝がまだ二十三歳のとき、阪東に下向して鎌倉亀谷の館を拠点にして、相模国衙の在庁官人三浦・中村氏ら有力な武士団一千騎を率いて鎌倉党の大庭御厨へ乱入して奪い取り、これを源氏もまたて伊勢神宮へ寄進しました。結局、裁判になって源氏は敗訴したのですが、武力的には鎌倉党が源氏に制圧されてしまったのです。

そして頼朝の代になると今度は鎌倉党の領内に幕府が置かれ、稲荷神を祭っていた松ヶ丘明神は鶴岡八幡宮に占拠されてしまいました。そのため鎌倉党が源氏に対して遺恨を抱かぬはずはなかったのです。

しかし、万事に用心深い頼朝のことですから、鎌倉党の家督を継ぐ大庭景能を鶴岡八幡宮俗別当に充て、同族の梶原景時を侍所の所司に補したことでした。鶴岡八幡宮の正式な宮別当は京都から呼んだ中納言法眼円暁、輔仁親王源義家女の孫ですが、それまでは梶原景時と縁のある伊豆山走湯権現の専光坊良暹が臨時の宮別当でした。

頼朝が権力の座へ登って行く過程で犯した暗部を、一手に引き受けたのは梶原景時です。その手先となって隠密の役目を果たしたのは<雑色>と呼ばれた身分の低い者たちでした。それらは伊豆山走湯権現の修験山伏の他に、鎌倉弾左衛門配下にあった諸職の<道の者>たちもいたはずです。

長吏が居住していたという字金山の辺りから稲村ヶ崎極楽寺川が流れていて、ここから採れた砂鉄によって鍛えられたのが、鎌倉時代末にはじまるとされる相州正宗の名刀です。長吏弾左衛門配下の諸職のなかには、そうした武器や武具を製作する者もいました。当時は欠かすことが出来ない馬具もまた彼等の手になったことでしょう。

彼等が武具や馬具を作ったとすれば、横山党の娘を母として生まれた鎌倉党の梶原景時がその仲介をしたはずです。横山党は武蔵国最大の小野牧を経営していたのですから。頼朝軍が奥州藤原氏を倒した翌年、横山時広は藤原泰衡を梟首した功により淡路国国分寺を所領としていますが、その三年後、淡路から鎌倉へ前足五つ、後足四つの異馬を献上するという、馬牧経営者ならではのエピソードを『吾妻鏡』は記録しています。

24 富士の裾野

元暦元年(1184)正月二十日、近江国栗津(大津)で木曾義仲が阪東の大軍に攻められて敗死してから数ヶ月後、鎌倉に人質になっていた義仲の嫡男清水冠者義高は、大姫や付け人の計らいで脱走したものの、入間河原まで逃げて追手よって誅殺されてしまいました。いうまでもなく、義高が親の仇として頼朝を狙うことを恐れての誅殺です。

そのとき義高の身代わりとなって周囲を誤魔化したのは、信濃から義高に従って来た付け人一人海野小太郎幸氏でした。小太郎幸氏はその後、主人想いの大胆な行為に免じて本領安堵され、頼朝の近侍に加えられました。これ以上、義仲残党に狙われることを怖れた頼朝の処置でしょう。


海野一族は望月牧の牧監を務める信濃屈指の豪族でした。義仲が信濃で挙兵したとき、真っ先に参じたのが海野氏です。ところが、小太郎幸氏の父幸長はそれ以前から上洛して学者になり、出家して南都興福寺で得業の僧位を取り、しかも挙兵上洛した木曾義仲の元で大夫房覚明を名乗る手書き、つまり祐筆を務めていました。倶利伽羅峠の戦いのとき、勝ったら白山へ所領を寄進するからと、有名な「木曽殿願書」を書いたのは覚明だったのです。

義仲が栗津で敗死したとき、付き従っていた覚明も戦死したと思いきや、行方をくらまし、数年後には箱根山権現社の名僧として大胆にも鎌倉御所に現われ、一条能保の妻だった頼朝の同母妹の追善法要に導師を務めたものです。奥州藤原氏が討たれた翌年のことです。無論そのときは義仲の祐筆だったときの大夫房覚明ではなく、南都興福寺時代の信救得業を名乗って前身を隠していました。

武家の海野一族出身の信救得業の大胆さは今にはじまったわけではなく、以仁王平氏打倒を掲げて近江の園城寺に挙兵したとき、同与を求められた南都興福寺に信救得業がいて、園城寺への同調とともに「清盛入道は平家の糟糠、武家の塵芥なり」と悪態をついた返牒を書いたことでした。そこで信救得業は激怒した清盛の追手を逃れるため、事も有ろうか自ら漆を身に浴びて顔を癩病人にごとく変形させて南都から脱出したのです。

そんな信救得業が箱根権現の名僧におさまることができたのは、やはり木曾義仲に仕えたことによるものと思われます。というのも、権現社の別当行実は京都から離れられなかった源為義の阪東における代官でしたから、父為義から離反し、保元の乱に敗れた為義を斬処した義朝とその子頼朝を快く思っていなかったはずです。そして、義朝の代わりに阪東へ送られた義賢もまた義朝の長男義平に大蔵館を急襲によって殺されました。この義賢の子が木曾義仲だったからです。

しかも、義仲の兄仲家は義賢が阪東へ下向するとき、以仁王を担いだ摂津源氏頼政の養子となり、南都へ逃亡途中の宇治で養父と供に敗死してますから、いわば信救得業とは同志の関係にあったことになります。

そういう前歴の信救得業が箱根権現に来て頼朝の眼前に現われたということは、密かに信濃源氏木曾氏の仇討ちが目的だったのではないか、と思われるのです。とはいえ、信救得業がいくら武家の海野氏出身で大胆であっても、所詮は学者であり僧侶であるに過ぎません。自ら手を下すことは叶わないでしょう。


信救得業が箱根権現に紛れ込んだ同じ時期、曾我兄弟の弟五郎も箱根権現に入山しています。木曾義仲の敗死と嫡男義高が殺された翌年のことです。母の願いで非業の死を遂げた父河津三郎の菩提を弔うべく、箱根山別当行実の稚児となったのでした。ところが数年たって頼朝妹の追善法要から二ヵ月後、いよいよ明日は剃髪して出家の身となることを告げられた五郎は箱根山から脱走し、兄十郎と連れ立って北條時政の屋方をおとづれ、烏帽子親になってもらって元服しました。五郎十七歳のときです。

母の願いを裏切った兄弟は曾我の家から勘当されてしまします。兄弟が曾我氏を名乗るのは、実父の河津三郎が殺された後、生母が御家人の曾我祐信と再婚したことによるものです。しかし、祐信にも前妻との間に嫡子祐綱がいて、曾我荘意外に所領のない小身の御家人としては庶子の兄弟に分与する余裕はなかったのです。

継父の曾我家を勘当されてしまった兄弟は、その後、実父河津三郎が出た伊東一門と生母の出た横山党の親類縁者の家々を転々として時を過ごします。五郎の元服に烏帽子親になってくれた北條時政も伊東一門の出でした。兄弟が富士山裾野の巻狩に仇の工藤祐経を討ち果たしたのは、それから二年後のことでした。

頼朝はこの前年までに平氏を西海に没落させ、陸奥の藤原王国を滅ぼし、上洛して右近衛大将権大納言に任命されたものを即座に辞退、後白河法皇の万歳後に征夷大将軍に補任され、その喪も明けたのを期に阪東一円をデモンストレーション、軍事演習を兼ねた巻狩を重ねてきたのでした。

兄弟は狩庭の宿舎へ忍び込んで工藤祐経の寝込みを襲って討ち果たすと、駆けつけた御家人たちを次々に斬伏せ、いわゆる「十番斬り」の末、兄十郎は討たれ、弟五郎は取り押さえられてしまいました。ところが、五郎は取り押さえられる直前、頼朝に刃向かって突進したのですから、頼朝の命をも狙ったことは確かなことでした。

そして、ろくに戦場経験もない二十歳そこそこの兄弟が歴戦の御家人相手に何人も切り伏せたという仇討事件の背後に、政治的な武力衝突があったのではないかと歴史学でいわれています。何者かが兄弟の仇討を利用して頼朝暗殺を謀ったのではないか、というものです。その犯人としては北條時政や大庭景義・岡崎義実の名が挙がっているのですが、いずれも頼朝の家来である鎌倉御家人です。つまり、幕府内部の権力争い説です。

武家政権として鎌倉幕府が開かれたとはいえ、未だまだ安定していたわけではなかったのです。一年前には鎌倉の永福寺造営の現場で、工夫に紛れた平氏の残党上総五郎兵衛忠光に頼朝の命を狙われています。また、この巻狩の直前、御家人の中でも、武蔵七党丹党と児玉党が軍事衝突寸前の危機に見舞われ、彼等を取り締まっていた武蔵国惣検校職の河越重頼亡き後の代理を務めた畠山重忠に両者を調停させたほどでした。頼朝は狙われていたのです。

箱根山権現社の覚明こと信救得業は曾我兄弟の仇討の半年後も、まだ箱根山に居座っていて、頼朝が開いた父義朝の追悼供養の願文を書いてほどでした。曾我兄弟に親の仇討ばかりでなく、頼朝の命まで狙わせたのは、この覚明ではなかったのか、ともいえます。

しかし、仇討の背後で武力衝突があったほどの一団を動かせる力は、兄弟は無論のこと、覚明にもありません。


仇討事件から三ヵ月後、頼朝の弟で前三河源範頼に反逆の風聞によって、起請文を頼朝に出さされています。仇討事件のとき、頼朝が暗殺されたという噂が流れ、心配する頼朝の妻政子に留守をしていた範頼が「自分がいるから安心なさい」と慰めた言葉が、頼朝に取って代わろうとしたと噂されたのでした。

ところが、範頼の家人で弓刀に優れた当麻太郎が頼朝の寝所の床下に忍び込んで捕まったことから、当麻太郎は薩摩へ流され、範頼は伊豆の狩野介宗茂と宇佐美祐茂に預けられました。祐茂は曾我兄弟に討たれた工藤祐経の弟で、す。さらに範頼の家人らが頼朝を襲おうとして鎌倉で捕まっています。その中の一人が京小次郎といい、曾我兄弟の異父兄だったのです。


以仁王を奉じて平氏打倒に挙兵した摂津源氏頼政は、それ以前は伊豆の知行国主で、嫡子仲綱を伊豆守とし、現地へ仲綱の乳母子で左衛門尉仲成を目代として派遣しました。この目代仲成と伊豆国衙の在庁官人狩野介茂光の孫娘で、横山時重の娘との間に生まれた一男一女の一人が京小次郎でした。仲成が帰京したため、その妻は祖父の茂光に養われ、後に河津三郎と再婚して曾我兄弟が生まれたのです。『曾我物語』では、兄弟が兄小次郎に仇討を持ちかけ、今さら仇討なんぞと断られていました。

おそらく京小次郎は父仲成に連れられて上京し、主人筋である頼政の世話にもなったでしょう。そして、遠江国蒲生御厨で生まれて蒲冠者と呼ばれた範頼は、幼児のとき京の中流貴族藤原範季に育てられたのですが、範季の父能兼の姉妹が頼政の生母だったことから親しい間柄にありました。京小次郎が範頼に仕えたのも、そんな関係から生じたものと思われます。しかも、頼政の養子に木曾義仲の長男仲家がいて、頼政と供に宇治の戦いで戦死しました。箱根山に潜り込んだ義仲の元祐筆覚明がこうした関係を知らなかったはずは有りません。

とはいえ、範頼が富士の裾野で軍勢を動かしたとしても、それは木曾源氏の仇討が目的だったはずは有り得ません。頼朝にとって富士の裾野の巻狩りは十二歳の嫡男頼家への代替わりの披露を兼ねていました。この頼家の乳母の三人までが比企氏の女であり、その一人嫡女丹後内侍が安達藤九郎盛長と再婚して生まれた娘が範頼の妻になっていたのです。もしも頼朝が殺されて頼家が跡継ぎになれば、叔父にあたる範頼の立場は絶大であったことになります。範頼の失脚は後の比企氏没落の予告でもあったのです。


富士の裾野の事件から二年後、とうとう箱根権現の信救得業が実は木曾義仲の祐筆覚明であったことが露見して幕府から手配されたのですが、そのとき覚明は既に箱根山から行方をくらまして京へ舞い戻り、比叡山法然親鸞の弟子になっていました。一説に『曾我物語』や『平家物語』の作者はこの不敵な男といわれます。