14 阪東平氏

横山党は相模目代殺害によって追討されたのですが、愛甲荘司を得たばかりでなく、直接追討した相手方とも姻戚関係を結んでいます。追討したのは秩父重綱・三浦為継・鎌倉景政の三人ですが、いずれも秩父平氏流を称する阪東八平氏です。三浦為継と鎌倉景政は…

13 相模国進出

源為義は六条判官と呼ばれるように検非違使として京都に在住していたのに、相模国の愛甲荘を熊野山領として寄進しています。愛甲荘に接した毛利荘は為義弟の陸奥六郎義隆が領していました。為義・義隆兄弟は父義家の奥州合戦が終ってから十年後に生まれてい…

12 源氏没落

奥州合戦の後、源義家は官職もないまま十年間放置されました。白河上皇は義家の代わりに弟の義綱を陸奥守に起用したのです。一般に、奥州合戦の戦功によって義家の勢力が拡大することを白河上皇が怖れたからだと言われます。しかし、源義家は平将門や忠常の…

11 奥州合戦

阪東における清和源氏とは、言わばだったのです。源頼信が鎌倉に源氏の拠点を持ったとき、阪東は既に阪東八平氏や藤原秀郷の子孫、それに武蔵七党などの在地領主によって占められていました。そこへ清和源氏が割り込むには相当の無理を強いる必要があったの…

10 在地領主

将門の乱から一世紀近い後の万寿五年(1028)、房総半島で阪東諸国を巻き込んだ平忠常の乱が起きました。都では我世の春を謳歌して政権を主導してきた藤原道長の没した年のことです。平忠常は上総・下総・安房国またがって私営田を経営し、在庁官人として上総…

09 母族横山氏

赤駒を山野に放し捕りかにて 多麻の横山歩ゆか遺らむ 武蔵国衙のあった府中から見て多摩川対岸のの地は、『万葉集』にも多摩の枕詞として歌われ、都人にも知れていました。そこには、畿内の古代氏族小野氏が武蔵国司や多摩の小野牧別当として赴任する以前か…

08 多摩の横山荘

古代の律令制度による地方支配は受領国司によるものでしたが、実態は在地首長の郡司が持っていた伝統的な権力を前提にして徴税を請負わせていました。その結果、徴税をめぐって国司と郡司の間に必然的に対立が生じます。また、地方へ下向して土着した王族や…

07 勅旨牧小野牧

律令制のはじめ、馬牧は建前として全国一律に官牧が設置されました。その主な目的は軍団に対する騎馬の貢納による供給にあります。しかし、馬牧に適する地域と不適な地との差は抗しがたく、特定の地域以外は次第に衰微し、廃止されてしまいます。また、軍団…

06 多摩郡小野郷

先日は、武蔵守小野(高向)利春が多摩郡の小野神社の祭神を天下春命>に変えた経緯を考えてきましたが、では元の祭神であったはずのが否定された理由は何だったのでしょう。また、そのは何処へいってしまったのか。小野(高向)利春がまだ刑部丞として平安京に居…

05 武蔵守小野利春

武蔵七党横山党が誕生する直前、国司として二十年近くも武蔵国を支配した小野利春という男がいました。小野氏系図によると、利春は小野篁の孫の小野美材の次男に生まれ、延喜頃、高向氏へ養子に出たらしいのです。美材は延喜二年(902)に没しているので、その…

04 兵家小野氏

古代氏族としての小野氏の特徴は、遣隋使小野妹子に代表される外交と征夷副将軍小野永見に代表される軍事に関わったことにあるようです。政治の平和的手段が外交であるとすれば、軍事はその強行的手段であり、いずれにしても畿内政府において、小野氏の硬軟…

03 小野猿麻呂

先に断っておきますと、一般に混同されてますが、歌人の猿丸大夫とこれから述べる小野猿麻呂は別人です。猿丸大夫は柿本人麻呂だとする梅原猛説(『水底の歌』)もあるように藤原京時代人でした。小野猿麻呂は長岡京から平安京初期の人で、その間、百年ほど時…

02 流人小野金善

武蔵国の北方に毛国があります。上下に分かれて上野国(群馬県)と下野国(栃木県)に分かれました。東山道(中山道)の碓氷峠を越えて阪東に入ると、最初の国が上野国です。 上野国府の前橋の北二十粁ほどの処の吾妻川沿いに、小野上村と呼ばれた地があります(今…

01 横山党小野氏

武蔵七党武士団横山党の名は、多摩川下流域の南岸に連なる丘陵地帯がと呼ばれた地域に居住していたことに由来します。武蔵国衙のあった府中の多摩川対岸にあたる関戸のあたりから、八王子・淺川あたりまでがといわれました。このように横山党の横山氏にかぎ…

はじめまして

HPでは阪東の歴史をあつかってますが、ここではさらに絞って、平安朝末期から鎌倉初期のはじめに誕生したの古武士を追っかけようと思います。といえば、明治の国木田独歩の『武蔵野』、昭和の大岡昇平の『武蔵野夫人』(新潮文庫)、あるいは三浦朱門の『武…